孝恵太后(こうけいたいごう、1440年代? - 嘉靖元年11月18日1522年12月5日))は、成化帝の妃嬪で嘉靖帝の祖母。姓は邵氏(しょうし)。

孝恵太后邵氏

経歴 編集

杭州の貧民であった邵林と楊氏のあいだの娘に生まれた。幼いころから聡明で、容貌も美しかったが、婚約者がことごとく早世して7人に達した[1]天順4年(1460年)、杭州鎮守太監のもとに売られ、後宮に入った。

成化帝は邵氏の詩才を好み、寵愛した。成化12年(1476年)に、皇四子朱祐杬を産んで、宸妃に封ぜられた。成化23年(1487年)、成化帝の崩御の前に、貴妃に進封された。

朱祐杬の遺児の嘉靖帝が即位することになると、大いに喜んだ。嘉靖元年(1522年)、寿安皇太后と尊封され、同年11月に崩じた。孝恵康粛温仁懿順協天祐聖皇后と追尊され、成化帝と合葬された。弟の邵喜は伯爵(昌化伯)に封じられた。

子女 編集

  • 朱祐杬 − 嘉靖帝から献皇帝と追尊された
  • 朱祐棆 − 岐恵王
  • 朱祐枟 − 雍靖王

伝記資料 編集

  • 『明世宗実録』
  • 『贈特進栄禄大夫柱国昌化伯邵公神道碑』

脚注 編集

  1. ^ 沖喜(縁起なおし)のために、危篤の男性と婚礼を行なっていたと考えられている。における沖喜の風習は、病人の危篤の際に花嫁を迎えて、凶事を消し去ろうというものである。