孟 佗(もう た[1]、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。孟他とも、伯郎司隷扶風郡の出身。子に孟達、孫に孟興。

経歴 編集

『後漢書』や『三輔決録』に記述が残る。

霊帝の時代、朝政を専横していた中常時の張譲は、奴隷頭に家事を任せていた。孟佗は出仕せず、奴隷頭に家財をすべて賄賂に贈ったため、数年で破産してしまった。奴隷たちは不憫に思い「何か望みがあるか」と問うと、孟佗は「ただ貴方がたの拝礼のみ」と答え、奴隷たちは恩義から快諾した。当時、張譲の屋敷は面会を求める賓客が溢れ、門下にも数百の車が並び、何日も取り次いでもらえない者もいる有様だった。孟佗はその最後尾に並んでいると、奴隷たちがみな出迎えに来て、彼の車だけを招き入れた。衆人はそれを見て、「孟佗は張譲とそれほど親密なのか」と驚き、競って孟佗に珍品を贈りあった。孟佗はそれを張譲への賄賂に使って大いに喜ばれた。また他に、葡萄酒一斛を贈ったことで涼州刺史に任じられた。

建寧元年(168年)、西域の疏勒王・臣磐を叔父の和得が暗殺し、王位を簒奪した。170年、涼州刺史の孟佗は従事の任渉に敦煌兵を500人率いさせ、戊巳司馬・曹寬[2]と西域長史・張晏に焉耆亀茲車師前後部の部隊など合わせて三万ほどで疏勒を討伐させた。しかし、楨中城を40日ほど攻めたが、降すことが出来ず撤退した。この後、疏勒では王が相次いで殺害されたが、朝廷は制御することが出来なかった[3]

脚註 編集

  1. ^ 『後漢書』注「佗音駝」。『通典』邊防十の注「駝,徒河反。」より。
  2. ^ 『曹全碑』によると、曹全(景完)は西域戊郡司馬として疏勒討伐に従軍した。また碑文では和得は降伏し処断されている。
  3. ^ 『後漢書』西域伝

参考文献 編集