守屋精爾

日本の陸軍軍人

守屋 精爾(もりや せいじ、1895年明治28年)11月2日[1][2] - 1943年昭和18年)5月20日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・梶田。

経歴 編集

岡山県出身[1][2][3]。梶田寿平の五男として生まれ、守屋弁之助の養子となる[1]。岡山第一中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる[1][4]。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業[1]。陸士生徒隊付、山砲兵第11連隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した[1][2][3]

1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級[1]。同年12月、第4師団参謀に就任し、1934年(昭和9年)3月、参謀本部付(シャム出張)、1935年(昭和10年)4月、シャム公使館付武官を務め、陸大教官に転じて、1937年(昭和12年)3月、砲兵中佐に進んだ[1][3]。1937年(昭和12年)12月、参謀本部付兼大本営付となり、1938年(昭和13年)1月、欧州出張を命ぜられ、同年2月、スペイン駐在(公使館付武官)となり同年3月に着任[1][3]。1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進した[1][3][3]

1941年(昭和16年)6月に帰国し、同年7月、野戦重砲兵第2連隊長に就任[1][3]。同年10月、第15軍参謀に転じ、同年11月、同軍参謀副長に就任し、ビルマの戦いに参戦[1][2][3]。1942年(昭和17年)2月、泰国大使館付武官を兼務し、同年4月、同武官の専任となる[1][2][3]。1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に進級[3]。1943年(昭和18年)1月4日、泰国駐屯軍参謀長に就任したが、同月21日、病のため参謀本部付となり、同年5月に戦病死し陸軍中将に進んだ[1][2][3]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、158頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』733頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』407頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』403、407頁。

参考文献 編集

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。