安部 友恵(あべ ともえ、1971年8月13日 - )は、大分県杵築市(旧速見郡山香町)出身の日本の女子陸上競技マラソン選手。

安部友恵 Portal:陸上競技
選手情報
競技 長距離走
種目 女子マラソン、ウルトラマラソン
所属 旭化成
生年月日 (1971-08-13) 1971年8月13日(52歳)
出身地 大分県杵築市
コーチ 宗茂
自己ベスト
マラソン 2時間26分09秒(1994年大阪国際女子)
ウルトラマラソン 6時間33分11秒(100kmロード)
獲得メダル
世界陸上選手権
1993 シュトゥットガルト 女子マラソン
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2021年現在、100 kmウルトラマラソンの女子世界記録保持者。旭化成所属。身長149cm。

2006年に結婚、現姓・河野(かわの)、2児の母。

略歴 編集

1989年8月、大分東明高校3年在学中、高校総体3000mで3位入賞。この年、第1回全国高校女子駅伝が始まり、エース区間の第1区6kmを走り、トップの堤文子(埼玉栄2年)から12秒差の20:27の区間7位だった。同区間を走ったその他のランナーには寺崎史記(筑紫女学園3年)、小幡佳代子(秦野3年)、盛山玲世(由良育英2年)、山口衛里(西脇工業2年)などがいた[1]1990年3月、同校を卒業と同時に旭化成陸上部入部。

1993年1月31日、初マラソンとなった大阪国際女子マラソンで2位、2時間26分27秒(優勝した浅利純子とは1秒差)。この時浅利との優勝争いのデッドヒートを繰り広げていたが、ゴール寸前で安部の前を走っていたフジテレビ移動中継車に釣られて、安部は長居陸上競技場(注・現在の建物ではない)への進入路を間違えて直進してしまう(浅利は当時過去2回大阪国際を走った経験も有り、すぐさま陸上競技場の方向へ走り先頭に立つ)。結果的にこの距離と時間のロスが致命傷となり、惜しくも優勝を逃した。ゴール後のインタビューで安部は「ああやっぱり、自分は『マヌケ』だなと思いました」と苦笑いを浮かべながら発言し、一躍人気者となった。

同1993年8月15日シュトゥットガルト世界陸上女子マラソン3位入賞、銅メダルを獲得、タイムは2時間31分01秒。優勝は浅利純子で金メダルを獲得。松野明美は11位。33Km付近で集団から抜け出た2位のマヌエラ・マシャドと、その後の浅利のスパートにはついていけなかったものの、安部は3位の位置をキープしてゴールした。陸上競技の世界大会(五輪も含む)で、1種目で二人の日本女子選手がメダルを獲得するのは、史上初の快挙だった。

1994年1月30日、大阪国際女子マラソンで、当時の日本女子最高記録となる2時間26分09秒のタイムで初優勝。2位の藤村信子と同タイム、3位の浅利純子とは1秒差だった。レースは、長居第2陸上競技場へ3人がほぼ同時に入ったが、残り100mを過ぎてから安部がラストスパートで2人を引き離す。また、この優勝が旭化成陸上部女子のマラソン初制覇でもあった。同1994年10月2日広島アジア競技大会女子マラソンの代表に選出されたが、足の故障によりレース前日に欠場を表明(藤村信子が3位で銅メダルを獲得)。

1996年1月28日、大阪国際女子マラソン5位。2時間28分00秒(アトランタオリンピックの選考レース)。前年1995年の大阪国際が阪神・淡路大震災による影響で開催中止となり、2年前のディフェンディングチャンピオンとして出場。しかし、スタート直後に安部は転倒してしまうアクシデントに見舞われ、脇腹を強打し打撲傷を負う。その後5Km手前で先頭集団に追いついたが、35Km過ぎで脱落し優勝を逃す。アトランタ五輪へは補欠代表にとどまった。

2002年3月10日、名古屋国際女子マラソン6位、2時間31分11秒。東京→大阪→名古屋と3大会の女子マソンを続けて出走。名古屋のレース後、旭化成陸上部を退部。
同2002年11月17日、東京国際女子マラソン6位、2時間31分11秒。現在は旭化成延岡支社で通常勤務の傍ら、各地で開催される市民マラソン大会のゲストランナーとして活動している。2008年2月17日東京マラソン2008にゲストランナーで出走し13位、2時間56分35秒。

自己ベスト 編集

  • フルマラソン 2時間26分09秒
  • 100kmウルトラマラソン 6時間33分11秒(世界記録)

脚注 編集

外部リンク 編集