宮地克実
宮地 克実(みやじ かつみ、1941年3月10日 - )は、日本の元ラグビー選手及び指導者。
生年月日 | 1941年3月10日(83歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出身地 | 大阪府 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 同志社大学 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
プロフィール 編集
来歴 編集
大阪府立四條畷高等学校を経て、同志社大学へと進む。同大学在籍時代には坂田好弘らとともに第2回日本協会招待NHK杯で近鉄を下し、事実上のラグビー日本一を経験。その後、東京三洋に加入。また、日本代表選手の経験もあり、1969年のアジア選手権に出場し、キャップ1を獲得している。
現役引退後は1978年、1984年と2度日本代表監督を歴任。そして恩師でもある前任者の岡仁詩の突然の辞任により、第1回のラグビーワールドカップが開催される1987年に3度目の代表監督復帰を果たし、同大会の指揮を執った。
その後、三洋電機の監督に就任。同職時代には当時日本一連覇中の神戸製鋼との名勝負を毎年繰り広げた。しかし、三洋電機(現 パナソニック ワイルドナイツ)では選手、監督時代を通じて、ついに一度も日本一も、全国社会人大会の優勝も果たすことができなかったことから、「悲劇の名将」と謳われた。
造園業を営んでいる。また、ワイルドナイツの練習グラウンドの整備も手がけている。
テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の原作者、馬場信浩は大阪府立四條畷高等学校時代の一年後輩であり、同作品の執筆にラグビー関連資料を多数提供している。
エピソード 編集
- 1991年1月8日に行われた全国社会人ラグビーフットボール大会決勝戦で、神戸製鋼にまさかの逆転負けを喫した直後、頭の中が真っ白になったという。
- 2008年3月に行われた第45回日本ラグビーフットボール選手権大会決勝戦でサントリーサンゴリアスを破り、チーム初の日本一に輝いた際に秩父宮ラグビー場に来場。試合が終わった後、「ホンマ、長かったなあ」、と言いながら号泣。さらに三洋フィフティーンから求められて胴上げされた[1]。
脚注 編集
- ^ 宮地元監督「ホンマ長かったなあ」 - スポニチアネックス2008年3月17日付記事