宮川 経輝(みやがわ つねてる、1857年2月11日安政4年1月17日) - 1936年昭和11年)3月2日)は、日本牧師女子教育者熊本バンドの中心人物で、日本組合基督教会指導者海老名弾正小崎弘道と共に組合教会の三元老の一人と言われた。

みやがわ つねてる
宮川 經輝
同志社英学校時代の宮川
生誕 (1857-02-11) 1857年2月11日安政4年1月17日
江戸幕府肥後国阿蘇郡宮地村(現・熊本県阿蘇市一の宮町宮地)
死没 (1936-03-02) 1936年3月2日(79歳没)
日本の旗 日本大阪府大阪市西区
出身校 熊本洋学校同志社英学校
職業 牧師伝道者教育家思想家
配偶者 宮川次子
子供 宮川經一宮川經次 他娘6人
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生涯 編集

熊本時代 編集

熊本藩領の肥後国阿蘇郡宮地(現・熊本県阿蘇市一の宮町宮地)に生まれる。

1874年(明治7年)、16歳の時に選ばれて、リロイ・ランシング・ジェーンズ熊本洋学校に入学する。恩師ジェーンズの薫陶を受けて、1876年(明治19年)に学友と一緒に奉教趣意書にサインをする[1]

同志社時代 編集

洋学校の閉校に伴い、金森通倫らと、開校したばかりの同志社英学校に入学する。1879年(明治12年)新島襄の薫陶を受けて、同志社の第一期卒業生になる。卒業演説は「女子教育論」[2]

同志社卒業後、同志社女学校の監事(教頭)になる[2]1881年(明治14年)5月17日、同志社関係者が京都四条北座でキリスト教大演説会を開き、4,000名もの聴衆を集めて大盛況となった[3]

1881年(明治14年)、加藤勇次郎伊勢時雄と共に、女子教育社を設置する。翌年最初の卒業生を出す。

大坂教会牧師時代 編集

 
熊本バンド有志(1892年、前列左から下村孝太郎市原盛宏小崎弘道、宮川経輝、後列左から海老名弾正横井時雄不破唯次郎森田久萬人[4]

1882年(明治15年)、同志社出身の牧師上原方立の説得により大阪基督教会に牧師になる[注釈 1]

 
弟三回全国基督信徒大親睦会の記念写真、宮川は最から3列目の右から4人目

同年、大阪基督教徒青年会(大阪YMCA)初代会長に就任。1883年(明治16年)に沢山保羅から按手礼を受け正式に牧師になる。1883年、東京で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会の議長に選出され、井生村楼での演説会で「基督教教会の伝道」について講演をする[5]

1886年(明治19年)、泰西学館を設立する。9月には、内村鑑三を教師として招聘する。1888年(明治21年)、大阪基督教会で西村清雄に教える。1895年(明治28年)に経営悪化した泰西学館の館長を辞任する。

1904年(明治37年)、日露戦争が始まると、調査団として朝鮮に渡り、在韓日本人に伝道する。「大阪基基督教徒報国知義團」を組織して団長になり、戦勝のため活動した[6]日本メソジスト教会本多庸一ともしばしば一緒に戦地を軍隊を慰問した。

1909年(明治42年)の暮れ、菊池侃二大阪府知事宅に、成瀬仁蔵広岡浅子と共に招かれる。そこで、成瀬と広岡が議論になり、成瀬は宮川に教育してくれるように助けを求める。後日、宮川は広岡宅を訪れて「宗教に就いては何も知らぬあなたはこれから謙遜な生徒になって宗教を学ばなければならない」と諭す。このことがきっかけで広岡は聖書を学ぶようになり、1911年(明治44年)12月に広岡はキリスト教に入信し、宮川が洗礼を授け、大阪基督教会に入会する[7]

1910年(明治43年)、組合教会で朝鮮伝道部を設けて、渡瀬常吉と共に関わった。1913年大正2年)には広岡浅子に招かれ、静岡県御殿場での修養会の講師をする[8]

 
組合教会の三元老

1914年(大正3年)、全国協同伝道の西部部長になり伝道活動に邁進する。日本組合基督教会の重鎮として活動し、小崎弘道、海老名弾正と合わせて三元老と呼ばれた[注釈 2]

これらの活動が評価されて1921年(大正10年)にオベリン大学より名誉神学博士号が授与された[2]1925年(大正14年)4月に健康上の理由で大阪教会を引退し[9]、同教会の名誉牧師になる。

宮川の後任として、大阪基督教会には畠中博牧師が就任する[10]

1936年昭和11年)2月25日、大阪基督教会の分身の南大阪教会の創立10年記念礼拝の時に、講壇に立って感謝の祈祷を行う。その時、言語不明瞭になり卒倒しそうになり自宅に運ばれる。その後、自宅で臥床しその後昏睡状態になる。翌月3月2日午前10時30分に、夫人と子女たちと教会員に見守られつつ、昏睡状態のままで死去する[11]

三女の茂代は大塚節治(神学者、第13代同志社総長)の妻[12]

著書 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 当時、自由党の議員からの誘いで政治家になろうともした。大阪基督教会の役員から直接牧師になるように度々要請があったが断る。最終的に上原が下宿先に押しかけて交渉をし、半ば強引に承諾させた。(小泉 1937, pp. 67)
  2. ^ 西尾幸太郎牧師は「小崎先生は御城の如く、海老名先生は水の如く、宮川先生は山の如きを感じを與えた」と述べている。(加藤 1937, pp. 66)

出典 編集

  1. ^ 中村 2009, pp. 149)
  2. ^ a b c 同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年、70-71頁
  3. ^ 同志社々史々料編纂所 『同志社九十年小史』 学校法人同志社、1965年、643頁
  4. ^ 渡瀬常吉 『海老名弾正先生』 龍吟社、1938年
  5. ^ 徐 2016, pp. 16
  6. ^ 加藤 1937, pp. 66
  7. ^ 中尾 2015, pp. 50–51
  8. ^ 中尾 2015, pp. 92
  9. ^ 小泉 1937, pp. 68
  10. ^ 小泉 1937, pp. 67
  11. ^ 小泉 1937, pp. 72
  12. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』 228頁

参考文献 編集

 
現在の大阪基督教会(日本基督教団大阪教会

伝記 編集

  • 加藤直士 著「牧師としての宮川經輝先生」、内田政雄 編『故宮川経輝先生年譜』大阪基督教会、1937年、61-66頁。 
  • 小泉澄 著「牧師としての宮川經輝先生」、内田政雄 編『故宮川経輝先生年譜』大阪基督教会、1937年、67-72頁。 

研究書 編集

  • 小野静雄「東京の物語」『日本プロテスタント教会史㊤』聖恵授産所出版部、1986年、56-61頁。ISBN 4-88077-020-5 
  • 関根関根『内村鑑三』清水書店、1977年。ISBN 4-389-41025-3 
  • 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年。ISBN 4-642-03752-7 
  • 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02638-9 
  • 中村敏『日本キリスト教宣教史』いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02743-0 
  • 中尾祐子『浅子と旅する』いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02743-0 

論文 編集

  • 杉井六郎「「奉教趣意書」成立に関する若干の考察」『同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会』第10号、38-86頁、1973年。 
  • 徐正敏「李樹廷と日本キリスト教との関係」『明治学院大学教育センター紀要:カルチュール』第10号、1-19頁、2016年。 

事典 編集