寄船(よりふね)とは、中世近世日本における遭難による漂流船・漂着船及びその搭載物のこと。これに対して漂流物一般を寄物(よりもの)と称した。更に漂流船を流船と呼んで、寄船を漂着船のみに限定する考え方もある。

概要 編集

日本では古代からそもそも船の遭難そのものを神罰として捉え、漂流船・漂着船は発見者・救出者によって略奪・捕獲の対象になると考えられてきた。慣習法では地元領主あるいは住民の所有物もしくは地域の共有物とされてきたが、しばしば権利を巡る争いを引き起こした。こうした争いを回避するために各種法令が出された他、寺社などに寄進して紛争防止と宗教的恩恵の両方を得ようとすることも行われ、博多に近い宗像大社鎌倉時代の段階で過去数百年間の修理費用を寄船・寄物の寄進のみで賄ってきたという(寛喜3年4月5日官宣旨)。

室町時代から戦国時代の海賊衆の慣習法が鎌倉幕府制定法に仮託されて法としてまとめられたとされる『廻船式目[1]によれば、寄船に生存者がいた場合や船主が明らかな場合には無断の押収を禁じ、無主物のみを認めている。これは、『今川仮名目録』などの戦国時代分国法にも継承されている。だが、実際には故意に他人の船を沈めて積荷を寄船の搭載物であるとして奪う者もいた。だが、豊臣政権徳川政権によって不法行為の取締が強化される一方、分一などの発見者・救出者への法定による一定の権利保障が定められて問題の解決が図られるようになった。

寄船を願う風習 編集

  • 九州北岸の芦屋では正月に椀と箸を海に流して寄物が多いことを祈った[2]
  • 下北半島尻屋崎角の村では、正月の年占いに、水を張った大きな釜に、月の数字を一つずつ書き込んだ小さな船を12艘(閏年は13艘)を浮かべ、湯をたぎらせ、くつがえった船の順序を見てその年の寄物の多少を判断した[2]
  • 最上川の難所のひとつである碁点(現・村山市)周辺の部落では、年初めの寄り合いで出席者全員の祝い膳とは別に中央に祝い膳をひとつ置き、それを部落の主だった者が蹴とばしてひっくり返し、難船が多くあることを祈った[2]
  • 伊豆下田の西、手石裏では年始の祝言に、「イナサ参ろう」「寄せてござれ、古釘で祝いましょう」と言い合った(橘南谿『東遊記』)[3]。イナサは海上の悪風を意味し、イナサが吹くと住民が松明を持って浜辺を行き来し、悪風を避けるための港を探している船を暗礁の群れにおびき寄せて破船させ、翌朝船荷などを取っていた[3]
  • 渥美半島伊良湖岬にも「イナサこいやれデンゴロリン」という悪風が船を転覆させることを願う言葉があった[3]。破船からこぼれた常滑焼を砂中から掘り出して伊良湖焼として売り、土地の名物となっていた[3]
  • 志摩半島大王崎も難所として知られ、漂到物を拾う習慣があった[4]天保元年(1830年)には波切村(現・志摩市)の住民が、江戸に下る船から城米300石を奪い、船に石を積んで沈没させ、難破船を偽装した事件があった(波切騒動[4]

脚注 編集

  1. ^ 広島県立文書館収蔵文書展 海の道の近世p3”. 広島県県立文書館 (2013年). 2018年3月21日閲覧。
  2. ^ a b c 『日本残酷物語』平凡社、1959年、p8-9
  3. ^ a b c d 『日本残酷物語』平凡社、1959年、p11-12
  4. ^ a b 『日本残酷物語』平凡社、1959年、p12-15

関連項目 編集