富嶽三十六景

葛飾北斎による版画のシリーズ

冨嶽三十六景』(ふがくさんじゅうろっけい)は、葛飾北斎による富士図版画集である。1831-34年(天保2-5年)版行。全46図。大判[注釈 1]錦絵版元西村屋与八(永寿堂)

『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏

概要 編集

柳亭種彦『正本製(しょうほんじたて)』(1831年(天保2年)、永寿堂)の巻末広告によれば、当初は「三十六景」の揃物の予定であったが、売れ行き好調のためさらに十点の追加になった[2]。 追加された十点は「裏不二」と呼ばれる[3]。『正本製』から、版行時期は、1831年(天保2年)から、『富嶽百景』の版行が始まる1834年(同5年)頃と思われる[4]

富岳三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚 一枚ニ一景ズツ 追々出板
此絵は富士の形ちのその所によりて異なる事を示す 或は七里ヶ浜にて見るかたち
又は佃島より眺る景など 総て一ようならざるを著し 山水を習う者に便す
此のごとく追々彫刻すれば猶百にもあまるべし 三十六に限るにあらず — 柳亭種彦『正本製』(巻末広告)、[2]

富嶽三十六景の好評によって、名所絵役者絵美人画と並ぶジャンルとして確立された[5][6]。また同時期に版行された歌川広重東海道五十三次保永堂版)』とは、互いに刺激しあうこととなった[7]

出版順 編集

個々の作品は、落款の違いによって、「北斎改為一筆」・「前北斎為一笔」・「前北斎為一筆」・「前北斎為一筆」(「為」が草書で主版が藍摺)・「前北斎為一筆」(「為」が草書で主版が墨摺)の5グループに分けられる。この内最後の、主版が墨摺の「前北斎為一筆」10図(裏富士)が一番新しいのは明らかなので、「前北斎為一筆」でない「北斎改為一筆」が一番早いものと推測できる。残り3タイプの内、唯一の「笔」が藍摺りものなので、『正本製』に「藍摺」と言及されていることを考慮すると、「北斎改為一筆」に次ぐと推測できる。残り2タイプの内、最後と決まっている、主版墨摺「前北斎為一筆」と同様に、草書体「為」と同じ方が新しいと推測すると、

  1. 「北斎改為一筆」
  2. 「前北斎為一笔」
  3. 「前北斎為一筆」(「為」がやや縦長)
  4. 「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)
  5. 「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が墨摺)

の順になり、それぞれの該当作品を挙げると、

  1. 全10図:「神奈川沖浪裏」・「凱風快晴」・「山下白雨」・「深川万年橋下」・「尾州不二見原」・「甲州犬眼峠」・「武州千住」・「青山円座松」・「東都駿台」・「武州玉川」
  2. 全10図:「相州七里浜」・「武陽佃嶌」・「常州牛堀」・「甲州石班澤」・「信州諏訪湖」・「遠江山中」・「甲州三嶌越」・「駿州江尻」・「東都浅艸本願寺」・「相州梅沢左」
  3. 全5図:「下目黒」・「上総ノ海路」・「登戸浦」・「東海道吉田」・「礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)」
  4. 全11図:「御厩河岸より両国橋夕陽見」・「東海道江尻田子の浦略図」・「相州江の嶌」・「江戸日本橋」・「江都駿河町三井見世略図」・「相州箱根用水」・「甲州三坂水面」・「隠田の水車」・「東海道程ヶ谷」・「隅田川関屋の里」・「五百らかん寺さゞゐどう」
  5. 全10図:「身延川裏不二」・「従千住花街眺望ノ不二」・「駿州片倉茶園ノ不二」・「東海道品川御殿山ノ不二」・「甲州伊沢暁」・「本所立川」・「東海道金谷ノ不二」・「相州仲原」・「駿州大野新田」・「諸人登山」

になる[8]

 
『百富士』第一冊「橋下」

ベロ藍の使用 編集

「ベロ藍」こと輸入化学染料プルシアン・ブルーを用いている点が特徴である。ベロ藍単色摺り及びベロ藍を主体とした作品も10図ある(下の作品一覧は、後世の彫摺本なので、このリストとは一致しない)。

  • 甲州石班澤
  • 信州諏訪湖
  • 相州七里浜
  • 常州牛堀
  • 甲州三嶌越
  • 駿州江尻
  • 相州梅沢左
  • 遠江山中
  • 武陽佃嶌
  • 東都浅艸本願寺[9]

「裏不二」と呼ばれる追加10図は、主版[注釈 2]が墨摺りなのに対し、それ以外の36図は在来のを主版に用いている[11]。ベロ藍単色摺りが流行した背景には、天保の改革の奢侈禁止令によって錦絵の色が制限されたという事情がある[12]

影響 編集

 
『百富士』第四冊「牛堀常洲」

河村岷雪の『百富士』(1767年(明和4年)、全4冊。)から、構図や全体構成の影響を受けたことが指摘されている[13]。前者では、『百富士 橋下』の構図が「深川万年橋下」を描かせたのだと。また「常州牛堀」のように、名所でもなく、北斎が訪れた記録がない場所[14]を描いたのは、『百富士 牛堀常洲』に倣ったからだろうとされる[15]。後者では、『百富士』の副題が、第2冊「裏不二」、第三冊「東海道」など、『三十六景』の画題に通じる点がある[16]

 
ヴュイヤール「テュイルリー公園」。1895年。リトグラフ。「五百らかん寺さゞゐどう」からの援用が窺える[17]

19世紀後半のヨーロッパにてジャポニスムと呼ばれる潮流を起こし、ヴュイヤールなどに影響を与えたとされる[17]アンリ・リヴィエールは本作に触発され『エッフェル塔三十六景』を描いた[18]。なお、1905年に出版された「海 (ドビュッシー)」のスコアの表紙に「神奈川沖浪裏」が使用されたが、曲の着想を「浪裏」から得たと断定する十分な根拠はない[注釈 3][注釈 4]

2010年10月31日、北斎生誕250年を記念して、Google日本版のホームページのロゴが「神奈川沖浪裏」バージョンとなった[注釈 5]。2020年2月4日以降の新パスポート査証ページには「富嶽三十六景」があしらわれている[注釈 6][注釈 7]。また、2024年度に発行予定の新千円紙幣裏面に、神奈川沖浪裏が印刷される[注釈 8]

図版 編集

図版順は日野原[19]による。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 約39cm×約26.5cm。大奉書紙を縦二つ断ちしたもの。この時期の浮世絵は大判が標準サイズになる[1]
  2. ^ おもはん。最初に摺る輪郭線のこと[10]
  3. ^ 浮世絵等の活用に向けた基本方針 平成30(2018)年6月”. 川崎市. 2018年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月7日閲覧。
  4. ^ 「Debussy:La Mer(ドビュッシー:海)は、葛飾北斎の木版画「冨嶽三十六景-神奈川沖波裏」から曲想を得たか?」(国立音楽大学附属図書館) - レファレンス協同データベース 2018年7月7日閲覧
  5. ^ Google Doodle「神奈川沖浪裏」”. 2012年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月22日閲覧。
  6. ^ 新型パスポートは「富嶽三十六景」 芸術作品の採用は初”. 朝日新聞デジタル. 2020年6月3日閲覧。
  7. ^ 2020年旅券”. 外務省. 2020年6月3日閲覧。
  8. ^ 新紙幣を正式に発表 一万円札の裏は東京駅”. 産経新聞. 2019年4月9日閲覧。

出典 編集

  1. ^ 藤澤 2008, p. 97.
  2. ^ a b 日野原 2019, p. 210.
  3. ^ 日野原 2019, p. 213.
  4. ^ 日野原 2019, pp. 210–211.
  5. ^ 大久保 2007, p. 154.
  6. ^ 山梨県立博物館 2007.
  7. ^ 小林・大久保 1994, pp. 77–79大久保「風景版画の大成と主題」
  8. ^ 日野原 2019, pp. 211–214.
  9. ^ スミス 1998, p. 25.
  10. ^ 国際浮世絵学会 2008, p. 110安達以乍牟「主版」
  11. ^ 日野原 2019, pp. 212–213.
  12. ^ 村上哲 2020, p. 159-160.
  13. ^ 磯 1961, pp. 67–84.
  14. ^ 永田 2009, pp. 4–14.
  15. ^ 磯 1961, p. 74.
  16. ^ 磯 1961, pp. 72–73.
  17. ^ a b 馬渕 2017.
  18. ^ 国際浮世絵学会 2008, p. 514及川茂「リビエール、アンリ」
  19. ^ 日野原 2019, pp. 5–12, 212–213.

参考文献 編集

  • 河村岷雪『百富士』京都・西村市郎右衛門ほか書林、1771年。全四冊。 
  • 磯博「河村岷雪の『百富士』と北斎の富嶽図」『美学論究』第1号、関西学院大学文学部美学研究室、1961年、67-84頁。 
  • 鈴木重三「冨嶽三十六景私見」『葛飾北斎筆冨嶽三十六景』集英社、1965年。 
    • 鈴木重三「冨嶽三十六景私見」『改訂増補絵本と浮世絵』ぺりかん社、2017年10月30日、444-452頁。ISBN 978-4-8315-1485-1 
  • 小林忠大久保純一編『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂、1994年5月20日。ISBN 978-4-7843-0150-8 
  • 狩野博幸『絵は語る14 葛飾北斎筆 凱風快晴 赤富士のフォークロア』平凡社、1994年8月。ISBN 4-58-229524-X 
  • スミス, ヘンリー「浮世絵における「ブルー革命」」『浮世絵芸術』第128号、国際浮世絵学会、1998年7月20日、3-26頁。 
  • 永田生慈「北斎旅行考」『研究紀要』第2号、財団法人北斎館 北斎研究所、2009年、4-14頁。 
  • 大久保純一 著「北斎の「冨嶽」と広重の「富士」」、山梨県立博物館 編『北斎と広重 ふたりの冨嶽三十六景』2007年10月13日。 
  • 国際浮世絵学会 編『浮世絵大事典』東京堂出版、2008年6月30日。ISBN 978-4-4901-0720-3 
  • 藤澤, 紫『遊べる浮世絵 体験版・江戸文化入門』東京書籍、2008年9月10日。ISBN 4-48-780262-8 
  • 馬渕明子監修『北斎とジャポニスム』読売新聞東京本社・国立西洋美術館、2017年10月21日。 
  • 日野原健司『北斎 富嶽三十六景』岩波書店岩波文庫〉、2019年1月16日。ISBN 978-4-00-335811-5 
  • 村上哲「浮世絵の伝来と邂逅の系譜から : 19世紀フランスをめぐる北斎と広重の受容と変容」『崇城大学芸術学部研究紀要』第14号、崇城大学芸術学部、2020年、147-167頁、ISSN 18839568 

関連項目 編集

外部リンク 編集