小千益躬

小千御子-天狭貫-天狭介-粟鹿-三並-熊武(能武)-伊但馬-喜多守-高縄-高箕-勝海-久米丸-百里-百男-越智益躬。河野氏の祖

小千益躬(おちますみ)もしくは越智益躬[1]とは飛鳥時代の人物。後の越智氏の祖の一人。

概要 編集

伊予国人孝霊天皇第二皇子伊予親王16代の孫。伊予守

予章記』によると推古天皇の代[2]に大陸から鉄人なる全身を鉄で覆った異形の人物を大将として戎人八千人が日本に攻めてきたことがあり、筑紫を荒らしまわったが日本の軍勢は歯が立たなかった。朝廷軍に参陣していた小千益躬は一計を案じ、降参して鉄人に寝返った振りをして船で播磨の明石まで案内しながら彼らのことを探った。やがて鉄人の足の裏が弱点だと知り、明石の蟹坂で持っていた鏃で馬上の鉄人の足の裏を突いて落馬したところを益躬の家人が討ち取り、そのまま混乱状態になった戎人の撃退に成功した。その後故郷の神に戦勝を感謝して三島明神を明石に遷して祀り、これが現在の稲爪神社だという。また現在の愛媛県今治市東禅寺を建立したという。後に益躬を祀って建立された穂蓼八幡神社も明石に現存する。この他益躬を由緒とする寺社は愛媛県に多い。この大陸からの侵攻については『二中歴』にも書かれているが、それ以前の記紀などには載っておらず現在の歴史学でも奇説や異聞の類とされている。 『日本往生極楽記』にも小千益躬は登場し、こちらでは仏教の聖人として描かれている。

脚注 編集

  1. ^
  2. ^ 二中歴によれば辛丑の年、なお推古天皇の代に辛丑の年はない

参考文献 編集

  • 『予章記』
  • 『日本往生極楽記』
  • 『二中歴』

関連項目 編集

  • 小野大樹 – 日本書紀において明石で賊の文石小麻呂を退治したという話が載っている。『明石名勝古事談』(明石の郷土史)では退治した賊の名前は赤浦鉄人で、討ち取った場所は蟹坂だったという。