小泉純一郎

日本の旗 日本の政治家
小泉 純一郎
こいずみ じゅんいちろう
小泉純一郎
生年月日 1942年1月8日(70歳)
出生地 神奈川県横須賀市
出身校 慶應義塾大学経済学部卒業
前職 衆議院議員
現職 国際公共政策研究センター顧問
所属政党 自由民主党清和政策研究会→無派閥)
称号 経済学士(慶應義塾大学・1967年
親族 小泉又次郎祖父
小泉純也
井料克己従兄
小泉孝太郎長男
小泉進次郎次男

内閣 第3次小泉内閣
第3次小泉改造内閣
任期 2005年9月21日 - 2006年9月26日
天皇 今上天皇(明仁)

日本の旗 第88代 内閣総理大臣
内閣 第2次小泉内閣
第2次小泉改造内閣
任期 2003年11月19日 - 2005年9月21日
天皇 今上天皇(明仁)

日本の旗 第87代 内閣総理大臣
内閣 第1次小泉内閣
第1次小泉第1次改造内閣
第1次小泉第2次改造内閣
任期 2001年4月26日 - 2003年11月19日
天皇 今上天皇(明仁)

内閣 第2次小泉改造内閣
任期 2005年8月8日 - 2005年8月11日

日本の旗 第132代 外務大臣
内閣 第1次小泉内閣
任期 2002年1月30日 - 2002年2月1日

その他の職歴
日本の旗 第81代 厚生大臣
1996年11月7日 - 1998年7月30日
日本の旗 第55代 郵政大臣
1992年12月12日 - 1993年7月20日
日本の旗 第70代 厚生大臣
1989年6月3日 - 1989年8月10日
日本の旗 第69代 厚生大臣
1988年12月27日 - 1989年6月3日)
日本の旗 衆議院議員
1972年 - 2009年7月21日

小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年昭和17年)1月8日 - )は、日本の元政治家。国際公共政策研究センター顧問

衆議院議員厚生大臣(第697081代)、郵政大臣第55代)、内閣総理大臣(第878889代)などを歴任した。内閣総理大臣の在任期間は1,980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作吉田茂に次ぐ第3位。

概要

福田赳夫秘書を経て、1972年第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来連続当選を果たす。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。

竹下政権にて厚生大臣として初入閣を果たし、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。森喜朗の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作吉田茂に次ぐ第3位。2009年の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、二男小泉進次郎を後継指名し政界を引退した。引退後は、奥田碩田中直毅らとシンクタンク「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務めていた。

経歴

生い立ち

小泉と家族

1942年神奈川県横須賀市に政治家小泉純也と芳江の長男として出生する。母方の祖父小泉又次郎第2次若槻内閣逓信大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった[注 1]

戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。井料克己によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだ貧(まづ)しくて夕食の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまに川や海に行って魚やうなぎを釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という[1]

学生時代

神奈川県立横須賀高等学校から慶應義塾大学に入学[注 2]。イギリスに遊学の後、1969年8月に父が急死したため帰国。

同年12月、亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。

福田赳夫の秘書として

福田赳夫秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した[2]横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った[2]。福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた[2]。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で揃(そろ)えておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り~お車ぁ~”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」[3]。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行い捲土重来を期していた。

初当選

1972年12月、第33回衆議院議員総選挙で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。清和会(福田派)に属し、後に首相秘書官となる飯島勲秘書となった。また、同期の山崎拓加藤紘一と懇意になり、YKKと呼ばれることとなる。

結婚と離婚

1978年エスエス製薬の元会長泰道照山の孫宮本佳代子と結婚した。この結婚に佳代子の父親的な存在だった泰道照山は反対だったという。宮本家の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている[4]

3人の子供をもうけたが、1982年に離婚した。関係者の話によれば、「小泉の面倒は姉で秘書をしている信子がみており、系図をみてもわかるように周囲は姉弟の身内で固めている。離婚の理由は定かではないが、よほど結婚にはこりたようだ」という[5]

衆議院議員

1979年第2次大平内閣大蔵政務次官に就任した。

大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。

1988年竹下改造内閣厚生大臣として初入閣。

1989年リクルート事件竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として「小選挙区制の導入」が叫ばれた際、小泉はこれに強く反対し、推進派の羽田孜と対立した。

1991年、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、「海部続投阻止」「経世会支配打倒」を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、海部内閣は機能不全に陥り、海部は総裁選不出馬に追い込まれた。

後任の総理総裁に宮澤喜一が就任すると、小泉は1992年宮澤内閣改造内閣郵政大臣に就任する。就任会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。

国連カンボジア暫定機構に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、宮沢改造内閣の郵政相として閣議の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」[6]、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」[7]等と語り、自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。

また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている[注 3]。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした[8]

1993年、羽田孜・小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。なお、総選挙後に日本新党細川護熙を首班とする連立政権が成立、自民党は野党に転落した。宮澤の後任の自民党総裁には河野洋平が就任した。

総裁選への挑戦

1994年、自民党は日本社会党委員長村山富市総理大臣指名選挙で支持して自社さ連立政権を成立させ政権に復帰、野中広務らの平成研究会(旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。

1995年参議院議員選挙で自民党は新進党に敗北。河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、小泉が自ら出馬することを決めた。

既に大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だったが、それでも若手議員のグループが小泉を推した(中川秀直山本一太安倍晋三もいた)。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。

1996年に村山が首相を辞任し、橋本内閣が成立すると、小泉は第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。

1997年、厚生大臣時代に厚生省幹部と参議院厚生委員会理事と食事を取っていたが、村上正邦自由民主党参議院幹事長が円滑な参議院審議を求める参議院理事のスケジュール管理の立場から、村上への事前通告がなく参議院理事を動かしたことで参議院スケジュール管理に支障を来たしたことを理由に反発した。村上が参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、厚生省幹部の出席差し止めという形で小泉厚相に反発。YKKの盟友だった加藤紘一幹事長を中心とする党執行部は異常事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。村上更迭という強行案には、党内連立反対派(保保連合派)らの反発を党執行部が恐れたため、小泉厚相に対して村上参院幹事長に全面謝罪させることを提案、小泉が村上に謝罪したことで収束した(この事件が小泉にとって、参議院の影響力の大きさを実感する出来事であった。2001年に首相になった時、トップダウン方針と言われながらも、参議院の実力者であった青木幹雄参議院枠を初めとする一定の配慮を示す原因になったと言われている)。

1998年参議院議員選挙、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、小渕恵三梶山静六と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持を得られず、仲間の裏切りにもあい、所属派閥の清和会すらも固めることもできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。この敗北では大きな挫折感を味わい、敗北後の清和会の会合では、泣いている小泉の映像が残っている[要出典]

加藤の乱

2000年、小渕が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。小泉は清和政策研究会(森派)の会長に就任した。第2次森内閣組閣では安倍晋三が内閣官房副長官に、中川秀直官房長官のスキャンダル辞任後の後任に福田康夫が、それぞれ小泉の推薦を受けて就任した。

この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森内閣は森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、森の失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。このころの小泉は公明党との協力に批判的で、2000年6月の衆院選で公明党候補が多く落選したことについて野中幹事長が「大変なご迷惑をかけた。万死に値する」とコメントしたことを、猛然と批判している。森内閣の支持率は2000年11月には18.4%を記録し、これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一山崎拓が公然と森退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は森支持の立場を明確にし、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。

加藤はマスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けたが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派(宏池会)が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。

小泉旋風

森の退陣を受けた2001年4月の自民党総裁選に、橋本龍太郎麻生太郎亀井静香と共に出馬。敗れれば政治生命にも関わるとも言われたが、清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子田中角栄の長女)の協力を受けた。

最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般の党員党友組織自由国民会議会員・政治資金団体国民政治協会会員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。こうした中で、次第に2001年7月に控えた参院選の「選挙の顔」としての期待が高まる。そして小泉は予備選で地滑り的大勝をし、途中で中曽根元首相、亀井元建設相の支持も得、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。4月26日首班指名選挙公明党保守新党の前身保守党、「無所属の会」所属の中田宏土屋品子三村申吾の支持を受け総理大臣に指名され同就任した。

内閣総理大臣

小泉とアメリカ合衆国大統領ブッシュ(2006年6月29日)

小泉は組閣にあたり、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」と呼ばれる流れを作った。言い換えると、従来の派閥順送り型の人事を排したのである。少数派閥の領袖である山崎拓を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会(橋本派)からは党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃行政改革担当大臣に、民間から経済学者竹中平蔵経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。

「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団住宅金融公庫交通営団など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。

発足時(2001年4月)の小泉内閣内閣支持率は、最も高かった読売新聞社調べで87.1%、最も低かった朝日新聞社調べで78%を記録。これは戦後の内閣として歴代1位の数字である。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。この小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

終戦の日8月15日靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。翌年以降も、毎年靖国参拝を行った。2006年には公約であった終戦の日における参拝を実現した。

9月11日米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。

国際情勢が緊迫する中、外務省は、田中外相が外務官僚や元外務政務次官の鈴木宗男議員と衝突し、機能不全に陥っていた。小泉は2002年2月に田中外相を更迭した。人気の高い田中の更迭により、80パーセントを超える異例の高支持率であった小泉内閣の支持率は50%台にまで急落した。田中は大臣更迭後の同年8月に秘書給与流用疑惑が浮上し議員辞職した。

小泉は、2002年9月に電撃的に北朝鮮を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、拉致被害者のうち5名を日本に帰国させることを承認した。しかし、残りの拉致被害者のうち8名が死亡・1名が行方不明とする北朝鮮の回答に対し、拉致被害者家族は怒りを隠さず、交渉を終え帰国した小泉を面罵する場面もあった。

2002年9月30日小泉改造内閣が発足。柳沢伯夫金融大臣から更迭して、竹中平蔵に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。

2003年3月、アメリカはイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦の数日前にアメリカ支持を表明し、野党やマスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を維持した。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。

9月に行われた自民党総裁選平成研究会藤井孝男運輸大臣を擁立して小泉おろしを図ったが、参院自民党幹事長であった青木幹雄がこれに与せず派閥分裂選挙となり、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった野中広務は10月に政界を引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、清和政策研究会(森派)が党の主導権を掌握することになる。

2003年9月、自民党総裁選で再選された小泉は小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選わずか3回の安倍晋三幹事長に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では絶対安定多数の確保に成功。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足した。この際、中曽根康弘元首相、宮沢喜一元首相に引退を勧告した。

2004年1月、陸上自衛隊イラク南部のサマーワへ派遣したが、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(地元部族長の仲介によるものとされる)。

2004年5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、平壌で金正日総書記と会談し。北朝鮮に対する25万トンの食糧や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。この会談で新たに5名の拉致被害者が日本に帰国した。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。

2004年6月、2003年6月に制定された有事関連三法に基づいて、「米軍と自衛隊の行動を円滑かつ効果的にする法制」、「国際人道法の実施に関する法制」、国民保護法等の有事関連七法(有事法制)を成立させた。

2004年7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。この責任をとって安倍幹事長が辞任し、武部勤が後任となった。

小泉の最大の関心は、持論の郵政民営化にあった。参院選を乗り切ったことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、4月に開設した郵政民営化準備室を本格的に始動した。

小泉劇場

2005年、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。反対派はこれに激しく反発し、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。

衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が参議院で否決されれば直ちに衆議院を解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そのような無茶はできないだろうと予測していた。

2005年8月8日参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宜伸農林水産大臣罷免、自ら兼務して解散を閣議決定し、同日小泉は、憲法第7条に基づき衆議院解散を強行した。

小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を郵政解散と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより9月11日の投票結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれた。

2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回り、小泉の長年の悲願は実現した。

ポスト小泉

2005年10月、第3次小泉改造内閣が発足。ポスト小泉と目される麻生太郎外務大臣に、谷垣禎一財務大臣に、安倍晋三が内閣官房長官に起用された。

この後、2005年11月~2006年1月にかけて、構造計算書偽造問題皇位継承問題ライブドア・ショック堀江貴文の逮捕、米国産牛肉輸入再開問題など、政権への逆風となる出来事が相次いで発生した。野党は攻勢を強め、9月の退陣へ向けて小泉内閣はレームダックに陥るのではないかとの予測もあった。しかし、堀江メール問題で民主党が自壊したため、内閣の求心力が衰えることはなく、通常国会では「健康保険法等の一部を改正する法律」(後期高齢者医療制度を創設)などの重要法案を成立させている。

2006年8月15日終戦の日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社参拝した。

2006年9月20日の自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日 に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後3位の長期政権となった。

首相退任後

首相退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの反響になる。

小泉には院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻らなかった。岸信介田中角栄中曽根康弘竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、町村信孝が継承)。

「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定している。2007年9月12日に、安倍晋三が首相辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる小泉チルドレンたちから小泉に総裁選立候補の強い要請があったが、本人は「100%出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)[9][10]

2006年以降は8月15日終戦の日)に靖国神社参拝を実施している。また、息子進次郎も父と同様に靖国神社参拝を実施している。

2007年9月、安倍が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区(衆議院東京5区)にてかつて岐阜1区で造反した野田聖子議員への刺客だった佐藤ゆかりの応援演説を行った[11]

政界引退

麻生内閣が成立した翌日の2008年9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院議員選挙に立候補しない意向を明らかにした。首相経験者が首相退任後の衆院選に立候補せずに政界を引退するのは池田勇人や小渕恵三の病気退任を除けば戦後初めてのことである。

ただし、国会の外での政治活動は継続すると表明している。政界引退後の総選挙においては、かつての選挙区である神奈川11区から小泉の次男で私設秘書の小泉進次郎が後継(世襲候補)として立候補し、当選した。

政策

政権公約となった政策

郵政民営化

2005年政府国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法が可決された。

靖國神社への8月15日(終戦の日)参拝

2001年自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。しかしながら、2001年から2005年までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する2006年には8月15日に参拝した。なお首相就任前は厚生大臣在職時の1997年に終戦記念日に参拝している他(私的か公的かについては明言せず)、それ以前も初当選以来ほぼ毎年、終戦記念日を含む年数回の頻度で参拝してきた[12]。退任後は2009年に参拝した。2010年の8月15日は参拝していない。

タウンミーティング

タウンミーティングの構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、電通社員へ日当10万円の払い、エレベーター係へ一日数万の払い、などといった不透明な実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱もかかっていた。

国債30兆円枠

小泉内閣は各年度予編成において国債発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げた。実際に達成できたのは政権初期の2001年度と政権末期の2006年度予算の2回のみであった。 ただし、国債30兆円枠はシーリングによる財政管理政策であり、その結果として一貫して増加傾向であった一般歳出の増加は抑制されその後微減傾向に転換した。

ペイオフの解禁

2001年自民党総裁選で他の総裁候補と同様にペイオフの解禁を公約に掲げた。しかし、不良債権処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。

一内閣一閣僚

小泉は閣僚の交代に批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していたが、田中真紀子外相の更迭で原則を破り、2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに定期的に内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。

政権獲得後に推進した政策

バブル後の金融問題の処理と構造改革

バブルの遺産と呼ばれていた不良債権を処理し金融システム正常化を果たし、財政再建や民営化を推進し経済の構造改革を唱えた。 その結果、日本経済は失われた10年と呼ばれた長期停滞を脱出した。

財政再建

プライマリーバランスの回復を目標とした財政計画作成・国債30兆円枠・公共事業の大幅削減・社会保障の抑制などを行い財政再建を推進した。その結果、就任時には一般予算・補正予算合わせて11兆8000億円あった公共事業費は退任時の平成18年には7兆8000億円にまで削減され、その一環として道路公団は民営化された。また社会保障費にはマクロ経済スライドが2005年4月に導入された。 その結果、日本経済の回復(いざなみ景気)による税収増もあり、財政は大幅に改善した。しかし一方で公共事業削減に対しては、亀井静香議員などをはじめとする道路族と呼ばれる議員などが反発した。また社会保障費の抑制は社会保障受給者や病院などの供給者などの負担となり問題となった。その結果、退任以降における政府の財政出動や景気の悪化などと重なり2008年から財政は大幅に悪化した。[2]

年金改革

年金制度を変革。老齢者控除廃止や公的年金等控除の縮小をした。

医療制度改革

医療制度改革関連法案を国会で可決させ、サラリーマン医療費負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70 - 74歳で今は1割負担の人も2割負担になる(後期高齢者医療制度)。

また、2006年度の診療報酬改定では、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減した(本体部分:2002年-1.3%,2004年0%,2006年-1.36%、薬価部分:2002年-1.4%,2004年-1.0%,2006年-1.8%、総額:2002年-2.0%,2004年-1.0%,2006年-3.16%)ほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている。

外交

意欲的に首脳外交・多国間外交を推進した。また靖国参拝を巡り中国と激しく対立した(詳しくは下記の経緯・エピソードを参照)。

女系天皇容認

長い間、皇室に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置して女性天皇のみならず、女系天皇容認に向けた動きを積極的に推進した。その後、秋篠宮家における男子継承者誕生から改正議論を棚上げしたものの、根本的な問題(継承者不足)が無くなった訳ではないとして「女系の天皇陛下も認めないと、将来については皇位継承というのはね、なかなか難しくなるんじゃないかと思ってます」との見解を述べた[13]

政権運営

小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。

内政

外交

2005年パースシャーサミット日本国首相として参加(後部列右から2番目の人物)

靖国神社参拝をめぐる動き

2001年に就任以来、靖国参拝を堅持する小泉に対して[注 5]江沢民国家主席または中国政府はすでに4年間にわたって日中間首脳の相互訪問を拒み続けてきた。最初の参拝の際には終戦の日には行かなかったために結局中国の圧力に屈したと漫画家の小林よしのりは非難している。2001年にAPECのために上海を訪問して、同年に首脳会談で北京を訪問した小泉は抗日戦争記念館に訪問して遺憾の意を表し[16]、そこで献花を行った(日本政府首脳が盧溝橋で献花するのは初)[17]。しかし小泉は靖国参拝を行っても同年10月26日には中国大使館にて「川劇」を参観しており、小泉は「川劇」を絶賛、出演者に敬意を示した。2002年には海南島の「ボアオ・アジア・フォーラム」第1回年次総会に出席し、同年の9月26日には中国の建国53周年と中日国交正常化30周年を祝う大型レセプションを開催したものの、日中国交正常化30年で式典で中国に訪中を拒否されており、2002年以降小泉は中国に訪問していない。小泉の北朝鮮への電撃訪問の際に江沢民に直接電話をしたが、江沢民はこれを拒否をした。胡錦濤が国家主席になっても冷却した関係であり、そんな中、2004年マレーシアで開催された東アジアサミットの際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、日本との首脳会談を拒んでいた中国の温家宝首相からわざわざペンを借りて署名し、両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。しかし同年のアジアカップではこれが影響で反日ブーイングが起きた。中国の胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。

2005年に反日デモが起こり、同年秋に小泉が5回目の靖国参拝を果たすと、中国政府はさらに、国際会議を利用して日中首脳会談・外相会談をすべて拒否するという強硬姿勢を示した。小泉は「靖国参拝するから首脳会談に応じないというのは、私はいいとは思っていない」と中国を批判した。第3国での会談も2005年4月のジャカルタで胡錦濤国家主席と実施したのが最後となっている。また2005年に呉儀副総理との会談も急遽キャンセルとなった。中国人タレントのaminは「愛・地球博」ファイナルテーマソングを小泉の前でも歌っていたものの、同年10月の「日中友好歌謡祭」の招待を小泉は取り消された。同年の11月中旬釜山でのAPEC首脳会議、12月中旬マレーシアでの東アジアサミットでも首脳会談は行われなかった。APECの閉幕後、イギリスのメディアの記者は、靖国神社の博物館では、アジアでの戦争は日本の防衛のためだったとか、南京大虐殺はなかったなどと主張しているが、これを支持しているかと質問した。 小泉は「その見解は支持していない」と明言、「多くの戦没者に哀悼の誠を捧げるために参拝している。そして戦争の反省を踏まえ2度と戦争をしてはいけないということから参拝している」と述べ、参拝は戦争を正当化するものではないとの立場を示した。

2006年には、閣僚や自民党首脳が中国を訪問しても事態は好転せず、日中関係は最悪の関係にあった。後の首相となる安倍と麻生は小泉同様に中国を批判し[注 6]ロバート・ゼーリックは安部・麻生との会談では「アメリカは日中関係を良くするために何かする必要があれば喜んでしたい」と仲介役を申し出た。しかし小泉は退任直前までに靖国参拝の姿勢を貫き、終戦記念日に念願の参拝を行った。

退任後も亀裂化しており、人民日報は訪中を決断した安倍を「智者」と持ち上げて絶賛する一方、靖国神社参拝問題などで日中関係を悪化させた小泉を「自己陶酔する独裁者」と非難した。東京・八王子市で演壇に立った小泉は「多くの戦没者の方々に敬意と哀悼の誠をささげるために私は靖国神社に参拝してきた。もし多くの国民が私の靖国参拝を批判するならば、そのような国民の総理大臣になっていたいと思わない。中国政府は将来『なんと大人げない恥ずかしいことをしたのか』と後悔する時がくる」と発言。中国の唐家セン国務委員が来日して友好ムードを盛り上げている最中に靖国参拝を理由に首脳会談を拒み続けた中国への怨嗟であり、親中路線にひた走る福田康夫への警鐘とも受け取れた。胡錦濤が来日を歓迎する朝食会・夕食会に小泉が参加せず、2008年に開催された北京オリンピック開会式に歴代首相の福田康夫・森喜朗・安倍晋三や東京都知事の石原慎太郎を招待したのに対し[注 7]、小泉は招待されなかった。ちなみに小泉は北京オリンピックを支援する議員の会の顧問であった。一方中国は靖国参拝をしなかった首相と天皇・皇后に対しては友好ムードをアピールし、日本の常任理事国入りに柔軟な姿勢を見せるなど、靖国神社参拝によりアメとムチ政策をとっていることが捉えられる。また招待された石原は小泉と違い中国に対し辛めの批評をした反中的な人物だった。

2010年12月の講演会で開かれた国際安全保障学会年次大会で、小泉は日中関係については「日中関係は大事だ。私は日中友好論者だ。経済を考えれば、これから日中関係は極めて重要だ。だが、一国の関係は経済だけではない。日本の平和と独立を守るためにアメリカに代わる国はない。」と述べ、日中首脳会談については「胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。外務省の担当者が「中国が『来年靖国神社を参拝しなければ会談する』と言っている」と言う。「じゃあ、小泉は来年、必ず靖国神社に参拝すると言ってます。会談をしたくなかったら、しなくて結構です」と。すると中国は「会談前と会談後に『靖国神社参拝する』と言わなければ会談する」という。だから私は記者に聞かれて「適切に判断する」と言った。中国は拒否しないでokしてきた。私の方がびっくりした。本当に首脳会談をしないと言ってきたのは、2005年に首相退任を明言してからだ。」と述べた。

韓国の場合、金大中は対日穏健派であったために難無く日韓ワールドカップに出席していたが、反日的な盧武鉉になると当初は良好であったが、後に小泉が国際連合安全保障理事会常任理事国入りを目指すと盧武鉉が反日路線に切り替え、靖国神社参拝を理由に2005年には日韓シャトル外交の中止を迫られ、他に竹島問題で反日感情が高まり、同年の6月には子供達が描いた反日ポスターが地下鉄駅に展示させられた際に「小泉首相を犬や猿に模して中傷する絵」などがあったが、ポスターには靖国参拝をしない首相は書かれていないために小泉政権が反日感情を高ぶらせたともいえる。さらに大邱日報によると[18]、8月18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」が本格発足し、支持率回復もあって盧武鉉は同年の12月に親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定した。しかし盧武鉉の死後、小泉は駐日韓国大使館1階に設けられた盧武鉉前大統領の焼香所を訪れ献花した。

靖国神社参拝に反発する中国・韓国との関係は悪化。反日感情が強い韓国と中国、反日感情が比較的穏やかな香港で起きた反日デモで自身の肖像が燃やされる事も度々あった。一方、台湾の歴代総統の李登輝陳水扁からは支持を得ており、陳水扁は台湾新幹線開業式に招待をしたものの、台湾では外省人が多い一部の国民党からは批判があり、退任後小泉は歴代首相と違い台湾の要人との会談や個人での台湾訪問を行っていない。石平陳恵運といった反中思想の中国系日本人は小泉を擁護している。

対外関係・外国からの評価

記者会見で盟友ブッシュ大統領と握手する小泉首相(2006年6月29日、ホワイトハウス)

人物像

容姿

対人関係

音楽・芸術関係

スポーツ・芸能関係

ロンドン大留学について

公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし。『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)には「小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は“慶應義塾大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学”とあるが、これは虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)に政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相はユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない」とある。

人物評

語録

家族 親族

祖父・又次郎
祖父・又次郎とび職人請負師、小学校代用教員、新聞記者、政治家)
1865年慶応元年)5月生~1951年昭和26年)9月没
父はとび職人請負師小泉由兵衛。『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。
普選運動の闘士として庶民人気が高かった[26]
純一郎が厚生大臣に就任したとき、フォーカスのインタビューで祖父のことをこう語っている[27]。「いまじゃゴルフ場にも入れてくれないのにな[27]。ところが祖父は、全身刺青で大臣や副議長までやった[27]。首から背中、腕にかけて龍が彫ってあって、それや見事なものだったよ[27]。」 「僕が9才のときになくなった[27]。よく覚えていますよ[27]。マージャン、花札、おいちょかぶ、みんな教えてもらったんだもの[27]
父・純也(政治家)
父・純也と、純一郎
1904年明治37年)1月生~1969年昭和44年)8月没
純也は鹿児島の出身で、生家の鮫島家が事業に失敗したため上京し、苦学しながら政治の道を志した[28]。芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった[29]。又次郎のところに出入するうち二人は恋におち、東京・青山の同潤会アパート同棲をはじめた[29]。又次郎は「帰って来い」と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている[30]。純也と芳江の結婚について、又次郎養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている[31]
在日朝鮮人北朝鮮送還事業を主導した[32]
母・芳江(父は小泉又次郎、母は石川ハツ)
2001年(平成13年)10月没
又次郎は、正妻ナオとの間に子がなかったので、石川ハツ(富山県滑川出身[33]が芳江(純一郎の母)を産んだ[34]。又次郎によると「誰の腹でもいいから、自分の子供はもっておくものだね」という[33]。石川ハツはその後、山口忠蔵という男と結婚し、3人の子を産んだ[34]。石川ハツが結婚した山口忠蔵はおみこしなどを造る宮大工だった[33]。山口忠蔵にも入れ墨があった。佐野眞一によると「山口忠蔵は、仕事の性質や入れ墨を彫っていたことなどから考えて又次郎の配下の者、もしくは弟分だったと思われる。だとすると、又次郎はハツに一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場の山口忠蔵にハツを“お下げ渡し”したのではないか。又次郎と山口はいわば “入れ墨兄弟” の関係ではなかったか?」という[35]
姉・信子(政策秘書)、ほかに2人
弟・正也(私設秘書)
妻は東京都知事石原慎太郎の妻典子の従兄弟の娘
前妻・佳代子エスエス製薬元会長泰道照山の孫娘、泰道三八の姪)
長男・孝太郎(俳優、タレント)
1978年(昭和53年)7月生~
二男・進次郎(政治家)
二男・進次郎
1981年(昭和56年)4月生~
三男
母佳代子と同じ宮本姓を名乗っている。「妊娠六ヶ月で離婚された佳代子が一人で三男を産むと、小泉側は親権を主張し、家裁での調停に持ち込まれた。その結果ようやく佳代子が三男を引き取ることができた。三男が「父親と二人きりで会いたい」と涙ながらに小泉事務所に電話で訴えてきたことがあったが、その話を秘書官の飯島から伝え聞いた信子は「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放った」という[36]
いとこ・井料克己(いりょう かつみ、政治家・元横須賀市議会議長)
井料の母親の弟が純也である[37]
義兄・豊島格(官僚・元資源エネルギー庁長官)
大叔父・小泉岩吉
小泉家の苦しい家計を支えたのは、又次郎が家業を譲った弟の岩吉だった[38]。兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要なを必ず用立てたという[39]

系譜

小泉家(神奈川県横浜市金沢区横須賀市
祖父小泉又次郎慶応元年(1865年)、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人由兵衛の二男として生まれた。又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さなであった[40]。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師[注 8]になった[41]
入れ墨を施した江戸時代の人、1870年
当時の横須賀では沖仲仕手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒[注 9]たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという[42]
1884年明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争から日露戦争にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった[43]。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった[43]。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく[43]。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった[43]。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった[43]。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない[43]
又次郎は若い頃、軍人になることを諦めとび職人になることを決意した証に、全身に入れ墨を彫っていた。明治41年(1908年)衆議院議員に当選、浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣を務めた。
鮫島家(鹿児島県南さつま市、旧加世田市
小泉純也鹿児島県川辺郡東加世田村(のち加世田市、現南さつま市)の漁業鮫島家に生まれた。父親の彌三左衛門(やざえもん)は事業に失敗し、地元の鰹節(かつおぶし)工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった[44]。母親が三男六女を育てたが、家が貧(まづ)しく純也のきょうだいのうち3人が亡くなっている[44]。純也は昭和12年(1937年)衆議院議員に当選、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を務めた。

評価

小泉家について、別冊宝島『知られざる日本の特権階級』38頁によると、「3代続く政治家家系といってもそれは“名門”とまではいえず、小泉純一郎も、福田赳夫書生をするなどしていた時代には、まさか康夫より早く総理に就任するなどとは思ってもみなかったであろう。…総理を出してなお、小泉家を“名家”とはいいがたい。これは他の一族とは異なる小泉家の持ち味なのだろう。」という。

ノンフィクション作家の神一行によると、「さてその小泉の閨閥であるが名門といわれるほどのものではない。むしろ小泉の性格は三代続く政治家家系の血筋とみてよい。」という[45]

    
            ┏━泰道三八
      泰道照山━━┫
            ┗━宮本志計子━━━佳代子
                       ┃
                       ┣━━━━━┳━小泉孝太郎
                       ┃     ┃
             (鮫島)    ┏━小泉純一郎 ┣━小泉進次郎
              小泉純也   ┃(元総理大臣)┃
               ┃     ┃       ┗━三男(宮本)
               ┃     ┣女
               ┃     ┃
               ┃     ┃
               ┣━━━━━╋女
      (綾部)     ┃     ┃┃
        ナオ     ┃     ┃豊島格
         ┃     ┃     ┃
      ┏小泉又次郎   ┃     ┣信子
      ┃  *━━━━芳江     ┃
      ┃ 石川ハツ         ┣女
小泉由兵衛━┫  ┃           ┃
      ┃ 山口忠蔵         ┃
      ┃              ┗━小泉正也          
      ┗小泉岩吉             ┃
                        ┃
     ┏━石田重蔵━━━━石田吉之輔━━━美枝子
     ┃
     ┗━石田光治━━━━典子
               ┣━━━━━┳━石原伸晃
             ┏━石原慎太郎 ┣━石原良純
             ┗━石原裕次郎 ┣━石原宏高
                     ┗━石原延啓

略年譜

著書

関連テレビ番組

脚注

  1. ^ 入れ墨を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる佐野眞一 2006, p. 147)藤原肇によると「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話は作り話であり、やはりテキ屋の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」という藤原肇 2005, pp. 39-40)。彫り師凡天太郎によると「とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」という岩崎大輔 2006, p. 58)
  2. ^ 慶應で同級だった学者の栗本慎一郎によれば「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。…彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、そのままロンドンに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」という}【週刊現代 2005/12/24号 巻頭記事】 栗本慎一郎 : 「パンツをはいた純一郎」
  3. ^ 「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策を取ったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見
  4. ^ 「三方一両損」という言葉で自らの改革を自画自賛したが、国会で故山本孝史議員から「三方一両損」の意味を知っているのかと質され返答できなかった。三方一両損は大岡裁きで知られる大岡忠相(大岡越前)のいわゆる大岡政談に出てくる話で、三両を落とした大工とそれを拾った左官が互いに譲り合って受け取ろうとしなかったので、大岡が自分の一両を足して二両ずつ分け合わせたという話。小泉の改革では保険機構はまったく損をしていないばかりか、被保険者は日頃の保険料も、窓口負担もともに増えているので三方一両損の比喩は全く当たらない。
  5. ^ 小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』の11巻では「いろいろ意見を持っている方がいるから、造るんだったらいいものを造りたい、私も(国立墓地を)前から考えていた。」という小泉の戦没者を慰霊する国立墓地検討に対する批判があった。
  6. ^ 安倍長官は衆院予算委で「政治問題を達成するために『会わない』という外交手段をテコに使うのは明らかに間違っている」と批判。麻生外相も 「一つの問題だけでほかの問題もすべてダメで、話も面会もない形は少々異常だ。靖国の問題で会わないのは中国だけだ」と同調した。
  7. ^ 1992年に次いで2008年にも天皇・皇后も招待する予定だったが、その予定を断った。
  8. ^ 作家火野葦平著『青春の岐路』によると、「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、バクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」という。猪野健治著『侠客の条件 吉田磯吉伝』170-171頁によると「やくざ組織の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。その構成層は、封建時代にあっては、下級武士浪人、人足、農民職人等であり、明治以降、昭和にかけては、没落士族、中小鉱山港湾土木建築関係者、土方、農漁民、職人等の一部であった。彼らこそ失うべき名誉も地位も財産もなにものももたない階級の所属者であった。彼らがときに発揮する反権力性は、実は彼らの階級性の気まぐれな表現であり、民衆が彼らに期待する任侠道とは、階級意識の原始的顕現にほかならない。」という
  9. ^ 猪野健治著『やくざと日本人』211頁によると、「博徒の伝統的な業態に“労働力供給業”がある。戦後でいう“手配師”がそれだが、戦前は単に労務者を労働現場へ送り込むだけでなく、自らも労働現場で“飯場”を経営した。大正昭和炭鉱、鉱山、工事現場、沖仲仕等の“タコ部屋”、“労働監獄”は、そのあくどさの典型であった。“労働力供給業”のすべてが、そうであったわけではないが、この業態そのものが労働者を不当に拘束し、虐待する性格をもっていることは否定しがたい。明治以後の“労働力供給業”は、日本の急テンポの近代化ともあいまって土木建築請負業に集中した。」という

出典

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  17. ^ また小泉は盧溝橋記念館で「忠恕」と揮毫した。
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参考文献

関連項目


外部リンク


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