山内 豊惇(やまうち とよあつ)は、江戸時代後期の大名通称は式部、兵部。土佐藩14代藩主。

 
山内豊惇
時代 江戸時代後期
生誕 文政7年6月6日1824年7月2日
死没 嘉永元年9月18日1848年10月14日
改名 敏衛→豊惇
別名 式部、兵部(通称)
戒名 譲恭院篤信自省
官位 土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶
土佐藩
氏族 山内氏
父母 山内豊資、美芳院
兄弟 豊熈豊惇豊矩豊範、貞、悦、嘉年ら11男7女
豊信(養嗣子)
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略歴 編集

12代藩主・山内豊資の次男として誕生した。幼名は敏衛。

嘉永元年(1848年)、先代藩主だった兄の豊熈が7月10日に死去したため、同年9月6日に家督を継いだが、2週間足らず後の9月18日に25歳で死去した。

嗣子がなく、跡を従弟の豊信(豊資の弟・豊著の長男)が継いだ。  

あまりに急な死去であり、幕府に嗣子の届けをしていなかったため、後継者不在で山内家は改易となるはずであったが、藩は幕閣に根回しして、表向きには豊惇は病気のため隠居したことにし、翌年2月に死が公表された。その間に分家の豊信(容堂)が養嗣子とされ、家督を相続した。

法号は譲恭院篤信自省。

系譜 編集