山口 喜一(やまぐち きいち、1881年明治14年)11月22日 - 1969年昭和44年)5月22日)は、日本のジャーナリスト

生涯 編集

1881年(明治14年)11月、福島県大沼郡旭村(現会津美里町)に原与三郎の次男として生まれる[1]。1901年(明治34年)4月、同志社普通部を経て、東京政治学校卒業[1]。翌年、福島県に帰郷し、山口家の婿養子となる[1]1903年(明治36年)、長野県松本町の戊戌商業学校の教師を務める傍ら、信濃実業新報主筆として記事を執筆する[1]。翌年、会津日日新聞主筆となり「政民策論」を著す[1]。1905年(明治38年)、東京毎日新聞社嘱託員となる傍ら、日本家畜協会『日本の家畜』の編集に従事する[1]。1906年(明治39年)、北海道旭川町北海旭新聞主筆に就任[1]1907年(明治40年)に北海タイムス編集長に就任し[1]1929年昭和4年)には北海タイムス社(現 北海道新聞社)取締役支配人に昇進する[1]1942年(昭和17年)に北海タイムス社を退社し、日本海事新聞社社長に就任する[1]第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)、新北海新聞社を設立したが、翌年公職追放を受けた[1]。追放解除後の1953年(昭和28年)、北海道経済新聞社を設立するが、北海道経済新聞は約半年で休刊となった[1]1959年(昭和34年)、北海道文化賞を受賞する[2]

ジャーナリストとして以外の活動としては、1929年(昭和4年)に長男の寿一が胃で死んだことをきっかけに、癌治療を研究する学者に資金援助を行い、北海道対がん協会を設立した[1][3]。この功績により、1968年(昭和43年)、日本対がん協会から、ガン対策事業功労者として表彰される[1][4]

業務の傍ら、ロシア語居合刀剣鑑定、囲碁(二段)、飛行機の操縦、短歌などを学ぶなど多趣味な人物であった[1]。この内、武道については、十代の頃より制剛心照流の柔術手裏剣術・縄術を修行し、柔術は免許皆伝の腕前であったほか、三十代より平岡風雲より長谷川流居合を、結城平五郎より宝蔵院流槍術と范会流居合を、吉井政恒より北辰一刀流居合を学び、この他、塩田流居合も学んだという[1]会津会会員でもあった[5]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p プロフィール 医療法人札幌太田病院創立62周年記念特集 山口喜一関連文集”. www.natsukaregusa.com. 2021年11月29日閲覧。
  2. ^ 北海道文化賞受賞者一覧”. 北海道庁. 2013年1月19日閲覧。
  3. ^ 山口喜一と子息寿一について”. 医療法人札幌太田病院. 2012年1月19日閲覧。
  4. ^ 過去の受賞者”. 日本対がん協会. 2013年1月19日閲覧。
  5. ^ 『会津会雑誌第51号』(昭和12年12月発行)

参考文献 編集