山片蟠桃

江戸時代の商人

山片 蟠桃(やまがた ばんとう、延享5年/寛延元年(1748年) - 文政4年2月28日1821年3月31日))は、江戸時代後期の商人であり学者[2]播磨国生まれ。名前は、升屋の番頭をしていたことからもじったもので幼名は惣五郎、晩年には長谷川芳秀と名乗る、通称升屋小右衛門。法名釋宗文。なお「蟠桃」は中国神話に登場するで、食べれば不老不死が授かるとされる。

やまがた ばんとう
山片 蟠桃
山片 蟠桃像(高砂市米田町神爪)
生誕 延享5年/寛延元年(1748年
播磨国印南郡神爪村
(現 兵庫県高砂市米田町神爪)
死没 文政4年2月28日1821年3月31日)(74歳)
墓地 善導寺(大阪市北区)[1]
記念碑 覚正寺(兵庫県高砂市)
国籍 日本の旗 日本
別名 長谷川芳秀(本名)
升屋小右衛門(通称)
職業 商人・学者
雇用者 升屋平右衛門
肩書き 升屋番頭・仙台藩蔵元
テンプレートを表示

生涯 編集

播磨国印南郡神爪村(現兵庫県高砂市)の農家に生まれる。生家は豊かな在郷商人でもあった。13歳のとき大阪の伯父の養子となる。

幼時から大阪の両替商である升屋に仕え、明和8年(1771年)に24歳の若さで番頭となり、傾いていた経営を軌道に乗せ、桝屋を繁盛させた[3]

財政破綻した仙台藩に建議し、差し米(米俵内の米の品質チェックのために米を部分的に抜き取ること)をそのまま集めて利用し、無駄を浮かせて節約し、藩札を発行するなどした[4]。藩札を発行した代わりに、従来の金貨の金を差し米の節約で捻出した資金で大阪に輸送し、それを利殖に回して巨額の利益を上げた[5]仙台藩の財政はこれによって再建され、彼は大名貸しの金を回収することができたと言う。文政2年(1819年)には二度目となる幕府からの表彰を受ける[6]

その功績を讃え、升屋では彼に山片姓を与え、親類並みに遇した[6]

その一方で学問に励み、晩年には失明という障害を乗り越え、五十半ばから著作にとりかかった主著『夢の代』を死の前年に完成させた。

思想 編集

大阪町人・大阪商人の学塾である懐徳堂中井竹山履軒兄弟に朱子学を、先事館麻田剛立に天文を学ぶ[2]

極めて唯物論的な立場を取り、天文、宗教、経済、歴史等を百科全書的に論じた『夢の代』は、無鬼論(無神論)の主張、地動説の支持、応神天皇以前の日本書紀の真実性の否定など先進的な持論を展開した点が特筆される[2]

具体的には、『夢ノ代』の冒頭である「天文編」で地動説と太陽系を紹介し、太陽系と同じものが宇宙に無数にあることや万有引力説を説いている[7]。土星の絵に環を画き、国学者の宇宙図を冷笑し、「神代編」では、記・紀を批判し、日本神国論も否定し、国生みは夫婦であるイザナキイザナミ二神の生殖行為を示すものとの見解を述べている[7]。また五行説(万物が木火土金水の五つの気から成るという説)を儒学者の妄説とし、天災もその実は人災であると鋭く批判している[7]

ただし、国家論においては保守的であり、「封建は天下自然の大道にして、王者の好む所」として、現実体制を肯定し、尊王敬幕といった幕府寄りの立場をとった[8]。それでも諸藩経済に関しては、藩に規律なく、大名達が身分不相応の贅沢をするため、悪化していると批判はしている[9]。またその財政立て直しの経験から豊臣秀吉の高米価政策を評価し、江戸幕府の低米価論を批判している[9]。また、君主があって臣民が生じたのではなく、庶民が先にあって主君を作ったものであるという考えを有していた[10]

著書 編集

脚注 編集

  1. ^ 山片蟠桃の墓
  2. ^ a b c 「山片蟠桃」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。
  3. ^ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典[ 近世編 ]』 原書房 2011年 160ページ
  4. ^ 山口博『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』角川ソフィア文庫、2015年、224 - 225頁。
  5. ^ 山口『日本人の給与明細』225頁。
  6. ^ a b 山口『日本人の給与明細』226頁。
  7. ^ a b c 山口『日本人の給与明細』228頁。
  8. ^ 山口『日本人の給与明細』228頁。これは諸藩に升屋が依存する関係だったためとされる。
  9. ^ a b 山口『日本人の給与明細』229頁。
  10. ^ 原田伴彦 『改革と維新』 講談社現代新書 1976年 113ページ

関係文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集