岡部 芳郎(おかべ よしろう、1884年4月9日 - 1945年3月17日)は、日本映画技師トーマス・エジソン唯一の日本人助手。

1904年から1914年まで在米、ニュージャージー州のエジソン研究所に在職。1914年に、日本キネトフォンの専任技師として帰国し、エジソンのトーキーを使用して松井須磨子の「カチューシャの唄」の映画版を制作・上映する。1945年、神戸大空襲により戦災死。享年61。

経歴 編集

山口県立大島商船学校(現大島商船高等専門学校)卒業後、海軍予備少尉に任官。22歳のとき、イギリス商船レイキャッスル号に3等機関士として乗船中(商船学校の卒業遠洋航海の途中との説もあり)、ニューヨーク停泊中に急性盲腸炎となり下船を余儀なくされ、そのままアメリカに残り、特許弁理士アツベの下で出願用の製図の仕事を得る。その後、ウェスティングハウス・エレクトリックを経て、同社技師長ボダマからメンローパークのエジソン研究所プリス技師長へ紹介され採用、6年間エジソンのもとで働いた。トーキーの音声を拡大する研究、金粉末密着法の設計製図、電池を用いた自動車モーターの研究に従事したほか、ニューヨークの三井支店などとの交渉を担当。

1909年渋沢栄一を団長とする第一回渡米実業団を出迎え、集合写真の一枚を撮影したのも岡部と言われる。1914年に、日本キネトフォンの専任技師として帰国し、エジソンのキネトフォンを使用して、松井須磨子の「カチューシャの唄」の映画版を制作、同年8月1日、浅草日本館において上映する[1]。この映画は音声と映像が同期はしていたものの、現在のようにフィルムに音を焼き付けるものではなく、映写に合わせてレコードをかけるヴァイタホン方式で「発声映画」と呼ばれたこともあり、日本初のトーキーとしては考えられていない。

1926年前後に大倉喜八郎の支援を受け、エジソンの訪日を計画・交渉したが、エジソン自身が人造ゴムの研究に没頭していたため、実現しなかった。1931年11月27日に日比谷公会堂にて行われたエジソン追悼会の席上、追悼会長であった金子堅太郎に「日露戦争の戦費調達のため訪米した際、エジソンより秘密研究室で働く日本人を紹介されたのが岡部芳郎君」と紹介された[2]

1934年、京都府八幡市男山のエジソン記念碑の除幕式に、金子とともにエジソンと最も親しかった日本人として参列した。その後、神戸で鉄工所を営み、北欧の船舶の修理などを引き受け財を成すが、戦時色が強まるにつれて、事業は縮小を余儀なくされる。渡米経験があったため、スパイ嫌疑がかけられ、憲兵隊で取り調べを受けたことが影響したとも言われている[3]。1945年、神戸大空襲によって戦災死する。その際、エジソンから譲り受けた個人的な品や発明品の多くが焼失した。

エピソード 編集

親日家であったエジソンとの個人的関係が深く、多くのエピソードを残している。エジソンを襲った暴漢を得意の柔道で投げ飛ばしたり、ヘンリー・フォードハーベイ・ファイアストーンらとのキャンプ旅行の世話をしたりで、大いに気に入られたと言われている。

また、エジソンは彼について、「自分の子供たちはしょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない」とコメントしている。

1937年に「日本の植物学の父」と言われる牧野富太郎が兵庫県と鳥取県県境氷ノ山を学術調査した際に、岡部が撮影した映像が2012年に発見され、牧野と親交があったことが分かった[4]

子孫 編集

その他 編集

NHKで放映のアニメ『ファイ・ブレイン 神のパズル』の登場人物の一人で「エジソンの称号」を持つキュービック・Gが操るロボット「オカベくん」は岡部芳郎に由来している[6]

脚注 編集

  1. ^ 田中純一郎『日本映画発達史I活動写真時代』中央公論社、1976年、211頁
  2. ^ 浜田和幸『快人エジソン』日経ビジネス文庫、2000年、233頁
  3. ^ 中国新聞2004年1月1日「エジソンを支えた日本人「岡部芳郎」は大島商船卒だった」
  4. ^ 「花在ればこそ吾もありー世界的植物学者を支えた神戸人」、SUN TV、2012年12月23日放映、2013年第20回坂田記念ジャーナリズム賞授賞作品
  5. ^ “77年前の神戸空襲で犠牲 発明王エジソン唯一の日本人助手 世紀を越え、直筆はがきの存在明らかに”. 神戸新聞. (2022年3月16日). オリジナルの2022年3月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220317074158/https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202203/0015140037.shtml 2022年3月20日閲覧。 
  6. ^ 浅沼晋太郎 Twitter

関連サイト 編集