崔恭(さい きょう、1409年 - 1479年)は、明代官僚は克譲。本貫順徳府広宗県

生涯 編集

1436年正統元年)、進士に及第した。戸部主事に任じられた。延綏の倉の備蓄を管理して、有能で知られた。楊溥の推薦により、萊州知府に抜擢された。萊州では遼東の布を運び入れて、州の倉庫に保管していたが、長い歳月を経て倉庫は老朽化し、倉庫を守る家の多くも没落していた。崔恭は別に30棟の家屋を建てて布を保管し、一定の期間に他所に運ぶようにし、残りを萊州府の軍の食糧購入に充てさせて、倉庫を守っていた800人をその役務から解放した。1449年(正統14年)、オイラトエセン・ハーン北京に侵攻を図ると、崔恭は萊州の民兵数千を派遣して援軍に入らせた。朝廷が臨清に築城するため、役夫を徴発するよう命じると、崔恭はちょうど春で民の食が乏しくなっており、秋まで待つよう請願した。萊州の人は崔恭を後漢楊震にたとえた。

1452年景泰3年)、崔恭は湖広布政使に抜擢された。公安県監利県の流民が殺し合っていたため、崔恭は現地の戸籍を望む者には与え、望まない者には本籍地に帰らせると、混乱は落ちついた。1453年(景泰4年)、崔恭は江西左布政使に転じた[1]

1458年天順2年)、寧王朱奠培に不法のことがあり、崔恭はこれを弾劾した。寧王の護衛が削られ、寧王は逼塞を余儀なくされた。崔恭は右副都御史に転じ、李秉に代わって巡撫蘇松諸府をつとめた。都督の徐恭とともに儀真の運河を浚渫した。また呉淞江の治水事業をおこない、崑山の夏界口から上海の白鶴江まで、さらに白鶴江から嘉定の卞家渡にいたるまでを浚渫した。

1460年(天順4年)、李賢王翺の推挙により、崔恭は北京に召還されて吏部右侍郎に任じられた。勧懲簿を置いて、聞いたことをみな記録した。吏部尚書の王翺は崔恭を頼りにした。1461年(天順5年)、崔恭は吏部左侍郎に進んだ。父が死去したため、崔恭は辞職して喪に服した。1463年(天順7年)、喪が明けると、吏部左侍郎に復帰した[2]1464年(天順8年)、成化帝が即位すると、崔恭は致仕を請願したが、許可されなかった。1469年成化5年)1月、李秉に代わって吏部尚書となった。5月、母が死去したため、帰郷して喪に服した。1471年(成化7年)閏9月、喪が明けると、南京吏部尚書として起用された[3]。諸司の職務不適格な者数人を弾劾して罷免した。1475年(成化11年)3月、参賛機務を命じられた。1477年(成化13年)7月、致仕した[4]1479年(成化15年)12月乙卯、死去した[5]。太子少保の位を追贈された。は荘敏といった。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻31
  2. ^ 『国榷』巻33
  3. ^ 『国榷』巻36
  4. ^ 『国榷』巻37
  5. ^ 『国榷』巻38

参考文献 編集

  • 明史』巻159 列伝第47