巴里會(ぱりかい)は日本で創立された社交団体。一般にはあまり知られていない[1]

概要 編集

パリに滞在経験のある画家作家ジャーナリスト実業家が集まり、世話役・武藤叟、発起人・黒田鵬心を中心として1930年に発足した[1]。1930年代は関東大震災からの東京復興に市民が沸いていた時期でもあり、巴里会の会員も銀座をパリのような都市にするという問題意識を共有していた[1]

原点となったのはフランス革命記念日7月14日)にちなんで毎月14日に会食などをする社交クラブであっり、発足当初は気楽な社交サロン的雰囲気が強かった[1]。しかし、国際社会における当時の日本の立ち位置が緊張状態にあったこともあって、1935年以降は日仏親善と都市美観問題の2つを軸とした公的な運動を展開するようになっていった[1]

会長 編集

会員 編集

出典:「あみ・ど・ぱり」1938年9月号p15 (国立国会図書館デジタルコレクション)

機関誌 編集

巴里会の機関誌として1934年3月に『巴里』を創刊。同年10月には『アミ・ド・パリ』に、1936年3月から『あみ・ど・ばり』と誌名変更した[2]

関連 編集

伴野文三郎[3]
銀座の伴野文三郎商店(現在の伴野貿易)創業者。1924年フランスよりパテベビー映写機を輸入し、その後十数年一世を風靡した。
創設1年めの委員の1人(他の委員には秦豊吉など)。1936年3月銀座六丁目に尾張町ビルを竣工し、6階の1室を巴里会事務所として無償提供した。
蚤の市[4]
機関誌『あみ・ど・ばり』は赤字続きでもあったため、その印刷費用捻出と、パリの蚤の市(フランス語: marché aux puces)の賑わいを日本に紹介するため、昭和9年9月29日から開催された。
開催の一切は銀座松坂屋店長の澤田東作に丸投げされ、銀座松坂屋で開催された蚤の市は舶来品が主体ということもあり盛況であった。食堂では「藤田嗣治画伯御指導蚤の市料理」が提供され、売り切れとなっている。
好評につき昭和10年3月には第2回が開催されたほか、増上寺境内でも開催された。

出典 編集

  1. ^ a b c d e 鈴木貴宇「1930年代の銀座における巴里への憧憬 ‐雑誌『あみ・ど・ぱり』と巴里会」(PDF)『非文字資料研究センターNews Letter』No.23、神奈川大学日本常民文化研究所、2010年、8頁、2022年11月4日閲覧 
  2. ^ 和田博文『言語都市・パリ 1862-1945』藤原書店、2002年、347頁。ISBN 9784894342781 
  3. ^ 野口孝一「「巴里会」の誕生」『銀座カフェー興亡史』平凡社、2018年。ISBN 978-4582544619 
  4. ^ 野口孝一「蚤の市」『銀座カフェー興亡史』平凡社、2018年。ISBN 978-4582544619