市川市蔵 (4代目)

日本の歌舞伎役者

四代目 市川 市蔵(よだいめ いちかわ いちぞう、明治元年10月15日1868年11月28日) - 昭和19年(1944年8月1日)は関西の歌舞伎役者。屋号播磨屋俳名に蝶升。本名は安部 楠松(あべ くすまつ/なんしょう)。初代中村鴈治郎の相手役として活躍した。

大阪北堀江の生まれ。明治10年 (1877)、二代目阪東壽三郎の門人となり阪東豊作を名乗る。明治22年 (1889) 10月には本名の安部楠松を名乗っていたが、明治23年 (1890) 11月角座において四代目市川市蔵を襲名。以降関西歌舞伎において活躍する。

当たり役に『桜鍔恨鮫鞘』(鰻谷)の古手屋八郎兵衛、『夏祭浪花鑑』の一寸徳兵衛、『戀飛脚大和往來・封印切』の八右衛門、『心中天網島・河庄』の孫右衛門などがある。特に八右衛門と孫右衛門は初代鴈治郎の十八番である忠兵衛(封印切)、治兵衛(河庄)の脇を固める重要な役どころで、市蔵はこれを見事に勤めた。口跡に難があり演技面でもうまくなかったといわれているが、一代の名優を助ける名相方として評価を上げたのである。

なお『封印切』はSPレコードの録音版がある。市蔵は八右衛門で、初代鴈治郎の忠兵衛、中村魁車の梅川、三代目中村梅玉のおえんと舞台を勤めており、その芸風を偲ぶことができる。

晩年は関西歌舞伎の長老として重きを成した。