弘田 信泰(ひろた のぶやす)は、土佐国の長宗我部元親の臣[1]。信経の息子。香美郡の郷士。

生涯 編集

元親の下、戦功を立て、永禄4年(1561年)に石立城を預けられた[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦役の結果、主家は没落した。

一両具足の浦戸一揆が起こった際、信泰はこれに加わって殺された。

脚注 編集

  1. ^ a b 阿部猛、西村圭子『戦国人名辞典』新人物往来社 1990.9.1 p.663