張元至

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

張 元至(ちょう げんし/もとよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。

 
張元至
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長6年8月27日1601年9月23日
改名 張思朝→張元至
別名 通称:唐兵衛尉→六左衛門尉
官位 讃岐守
主君 毛利輝元秀就
氏族 張氏
父母 父:張忠
兄弟 元至、女(堀加賀守室)、女(粟屋元信室)
秋穂下野守の娘
元貞元令市郎左衛門、女(粟屋元金室)
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出自 編集

張氏は、前漢張良の子孫を称し、張元至の祖父にあたる張由北京使官を務めた。父の張忠は来日し、大内氏の下で医師として山口の大町に屋敷を構えていた。

生涯 編集

輝元出頭人として 編集

から来日し、始めは張思朝と名乗り、天正16年(1588年)以降に張元至と改名[注釈 1]。父が来日後も姓を改めなかったため、漢姓と日本の通称を合わせて張唐兵衛尉と名乗り、天正16年(1588年)以後は張六左衛門尉と名乗った。

永禄8年(1565年)に父の跡を継ぐ。その後、佐世元嘉二宮就辰と共に毛利輝元に近侍し、天正15年(1587年)に讃岐守を受領した。

天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、輝元の側近として渡海しており、文禄2年(1593年)8月に帰国して以降、元至は佐世元嘉、二宮就辰、榎本元吉堅田元慶と共に毛利家の中央行政を担うこととなる。この5名の輝元出頭人はそれぞれ様々な出自・経歴を持つ人物であるが、元至のように帰化人が大名権力の中枢を担った例は全国的にも稀であり、出自や家格にとらわれず、能力評価に基づいて登用を図る輝元の姿勢が窺える[1]。この登用以後、元至や二宮就辰、木原元定らは代官として、毛利家領国内の各都市に派遣された[2]

文禄4年(1595年)に輝元の子・毛利秀就が生まれ、慶長3年(1598年)に秀就が輝元の後継者として豊臣政権に公認されると、国司元蔵児玉元経と共に秀就付きの家老となり[3]、併せて周防国長門国のうちに2863余石の知行を与えられた。以後は秀就付きの家老として広島に残りながら内政の補助を行うようになる[4]。慣例では毛利家の次期当主の傅役は粟屋氏国司氏が務めていたが、この時は粟屋氏からの選任がなかった一方で、明からの帰化人という異例の経歴を持つ元至が選ばれた。このことは輝元が伝統的な家中構造を超克し、自らの絶対性を確立しつつあったことを示している[5]

張元至密通事件 編集

このように毛利家の中枢で活躍した元至であったが、慶長6年(1601年)8月27日に秀就の乳母との密通を理由として、周防大島郡で切腹させられた。しかし、元至と密通したとされる乳母はその事実を強く否定しており[6]、元至死後の張家も輝元存命中に再興されていることから、この密通事件は事実でなく、元至を排除するための名目であったとされる[7]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗北したことで輝元の権威は低下したが、後継の秀就は幼少であるため、輝元に代わって当主となる人物もいないという、輝元の責任を追及できない状況にあった。豊臣政権下の輝元専制体制で領国支配から遠ざけられていた五奉行系などの旧勢力は、輝元の専制体制を支えていた輝元出頭人を身代わりとした。中でも帰化人である元至はそれらの旧勢力との関係も乏しかったため、身代わりとするには最適であった。また、秀就に対する輝元出頭人の影響力を排除するためにも、元至の失脚が必要となり、密通事件が仕組まれることとなった。いずれにせよ、このような権力闘争によって秀就周辺から輝元出頭人が排除され、児玉氏と国司氏の五奉行系の家によって秀就の側近が独占されるようになる[7]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 名前の「元至」の読み方は、音読みで「げんし」なのか、「もとよし」のような日本風の読みなのかは不明。ただし、孫の就貞元貞の子)が毛利秀就から「就」の字を与えられて「就貞」と名乗っているなど、少なくとも子孫は日本風の名前を名乗っているようである。

出典 編集

  1. ^ 光成 2016, pp. 210.
  2. ^ 光成 2016, pp. 228.
  3. ^ 光成 2016, pp. 212、278.
  4. ^ 光成 2016, pp. 213.
  5. ^ 光成 2016, pp. 279.
  6. ^ 『防長風土注進案』
  7. ^ a b 光成 2016, pp. 314.

出典 編集

  • 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 978-4-623-07689-5 
  • 岡部忠夫萩藩諸家系譜』(マツノ書店1999年復刻)
  • 萩藩閥閲録』巻78「張久左衛門」