張 煥相(ちょう かんしょう)は、中華民国満州国の軍人・政治家。北京政府奉天派の軍人で、後に満州国で司法部大臣などをつとめた。召棠

張煥相
プロフィール
出生: 1882年光緒8年)
死去: 1962年6月2日
中華人民共和国遼寧省撫順市
出身地: 盛京将軍管轄区奉天府(現在の撫順県
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 張煥相
簡体字 张焕相
拼音 Zhāng Huànxiāng
ラテン字 Chang Huan-hsiang
和名表記: ちょう かんしょう
発音転記: ジャン フアンシャン
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事績 編集

日本に留学し、陸軍士官学校第8期歩兵科を卒業した。1911年宣統3年)に帰国し、以後、奉天派として軍歴を重ねることになる。奉天都督府参議、鎮安上将軍署参謀、盛武将軍公署顧問などを歴任した。

1917年民国6年)12月、黒竜江督軍鮑貴卿の参謀長に任命される。翌年、中東鉄路哈満段警備司令となった。1919年(民国8年)8月には、東北陸軍第19混成旅旅長兼中東鉄道護路軍副司令に昇進している。1921年(民国10年)、浜江鎮守使を兼ねた。

翌年、中東鉄道護路軍司令に昇格している。1925年(民国14年)、中東鉄道代理督弁兼地畝局局長となった。1927年(民国16年)7月、東省特別区行政長官に転じた。張作霖が爆殺され、張学良が後継した後の翌年11月に、行政長官を辞している。張学良の下では、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官兼空軍代理総司令となった。

満州事変(九・一八事変)の勃発に伴い、張煥相は関東軍の支援を受け、満州国建国工作に参加した。これにより、満州国協和会指導部部長となっている。満州国建国後の1937年康徳4年)、司法部大臣に任ぜられた。1942年(康徳9年)9月28日、参議府参議に異動している[1]

満州国滅亡後、張煥相はソ連に逮捕されることは免れた。しかし中華人民共和国建国後の1951年に、反革命鎮圧運動の中で逮捕され、撫順戦犯管理所に収監されている。以後、思想改造を受けることになった。

1962年6月2日、収監されたまま病没。享年81。

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  1. ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 「譲偽満戦犯自食其力」出典:『文史精華』遼寧警網(遼寧省公安庁ホームページ)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   満州国
先代
馮涵清
司法大臣
1938年7月 - 1942年9月
次代
閻伝紱