御牧現喜(みまきげんき、1853年嘉永6年)1月1日 - 1911年明治44年)8月25日)は、本門仏立宗第二世講有、本門法華宗管長。日号は日聞(にちもん)。

生涯 編集

1853年嘉永6年)、現在の大津市追分町にて米問屋の長男として生まれる。幼名は虎之助。1861年文久元年)に9歳で長松清風の佛立講に入門。1869年明治2年)2月19日、17歳で宥清寺において出家得度(法華宗の僧侶として)。その後、清風の命により宥清寺住職に晋山。1882年(明治15年)学頭に就任。

1883年(明治16年)、一部の講員が清風に反逆する混乱の中、清風は隠居。後事一切を現喜に任せる。1889年(明治22年)大阪大歓組を結成し後に清風寺となる。1890年(明治23年)7月、清風死去。宥清寺で行なわれた本葬では祭主を務めた。野原弁了と共に、最晩年まで清風に寄り添った。清風の死に伴い、佛立講第二世講有に晋位。

1900年(明治33年)10月、光長寺の教師となる。1903年(明治36年)6月、鷲山寺第八十三世貫首に晋山。1904年(明治37年)本門法華宗の管長に就任。

1911年(明治44年)妙蓮寺第五十四世貫首に晋山。同年8月25日遷化。59歳。

エピソード 編集

  • 清風は「当講内、講元、諸組の面々清風帰寂の後は弟子現喜を二代目の導師、それがしのかはりと尊敬して、当流の御法義を謹みて堅く相守、繁栄をいのらせ給え」と、絶大な信頼を寄せていた。
  • 現喜が鷲山寺貫首だったことが、本門佛立宗と獅子吼会との現在まで続く交流の始まりといえる。

参考文献 編集

  • 『随喜 開導百遠諱総修大法要記念誌』1990年
先代
長松清風
本門佛立宗
講有:1890年 - 1911年
次代
野原弁了