押松丸(おしまつまる、生没年不詳)は、鎌倉時代の人物。藤原秀康の従者[1]

略歴 編集

押松丸は後鳥羽上皇の使者で、承久3年5月15日1221年6月6日)に発せられた「義時追討の宣旨」を持ち、三浦胤義の密使と共に鎌倉へ赴いたが、葛西谷で捕らえられた。5月27日6月18日)、北条義時は押松丸に返書を持たせて京都へ帰らせた[2][3]

6月1日6月22日)、京都に着いた押松丸は御所に参上。周囲からは義時を討ったかと期待されるも、院宣が奪われて鎌倉から大軍が攻めてくることを告げると公卿らは驚き慄いたと言う[4]

関連作品 編集

参考文献 編集

  • 『異説日本史戦争篇上. 第12巻』雄山閣編輯局、1932年、286頁。 
  • 『日本史蹟大系: 第6巻』平凡社、1935年、2495頁。 

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 作中では平知康と同一人物として描かれている。

出典 編集

  1. ^ 鎌倉方はなぜ承久の乱に勝てたか”. www.tamagawa.ac.jp. 2023年1月5日閲覧。
  2. ^ 北条政子の演説は誰に、どこで?”. 2022年12月11日閲覧。
  3. ^ 異説日本史戦争篇上. 第12巻 1932, p. 286.
  4. ^ 日本史蹟大系:第6巻 1935, p. 2495.