斉の内乱

春秋戦国時代の戦い

斉の内乱(せいのないらん、繁体字:齊内亂之戰、簡体字:齐内乱之战)は、紀元前489年に発生したの内乱。鮑氏と田氏が大勝して、晏孺子荼あんじゅしとを廃し公子陽生を国君とした。

斉の内乱
戦争:斉の内乱
年月日紀元前489年
場所営丘
結果:鮑氏と田氏の大勝
晏孺子荼を廃し、公子陽生を国君とした
交戦勢力
晏孺子荼
国氏中国語版
高氏中国語版
田氏
鮑氏
指導者・指揮官
国夏中国語版
高張中国語版
晏圉中国語版
田乞
鮑牧中国語版
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

内乱 編集

紀元前490年、斉の景公の病が重くなり、死期を悟った。遺命として公子を太子とし、他の公子をらいに東遷させることを国夏中国語版高張中国語版に命じた。9月、景公が死んで、国夏と高張は公子荼を国君とした(晏孺子荼)。国夏と高張は執政した。10月、萊にいた公子嘉[1]・公子・公子けんは衛に亡命し、公子しょ[2]公子陽生は魯に亡命した[3]田乞は国夏と高張と親交を重ねていたが、その一方で他の大夫たちに対しては両氏への反感を煽っていた。

紀元前489年6月、でんきつ鮑牧中国語版らと兵を率いて公宮で反乱を起こし、高氏と国氏を攻撃した。あんじゅの軍隊はすぐに敗北し、田乞は勝利に応じて国夏を追撃した。国夏は中国語版きょに亡命した。軍隊は返回して、高張を殺し、晏圉中国語版あんぎょに亡命した[4][5]。鮑牧は右、田乞は左相となった。国氏と高氏のまつりを絶やさぬために国書中国語版高無丕中国語版こうむひを立てた。同時に、年少の晏孺子荼は、支持者を失い自立できなくなった。田乞は諸大夫が推薦する公子陽生を国君とした(とう公)。晏孺子荼は頼に移され、さらにたいに移されて、野外の幕下で殺害された。遺体はぼうじゅんに葬られた[6][7]

脚注 編集

  1. ^ 『春秋左氏伝』哀公5年による。『史記』斉太公世家では「公子寿」とする。
  2. ^ 『春秋左氏伝』哀公5年による。『史記』斉太公世家では「公子そう」とする。
  3. ^ 『春秋左氏伝』哀公5年
  4. ^ 春秋左氏伝 哀公六年》:齊陳乞偽事高國者,毎朝必驂乗焉,所從必言,諸大夫曰,彼皆偃蹇,將棄子之命,皆曰,高國得君,必偪我,盍去諸,固將謀子,子早圖之,圖之莫如盡滅之,需事之下也,及朝,則曰,彼虎狼也,見我在子之側,殺我無日矣,請就之位,又謂諸大夫曰,二子者禍矣,恃得君而欲謀二三子,曰,國之多難,貴寵之由,盡去之而後君定,既成謀矣,盍及其未作也,先諸作而後悔,亦無及也,大夫從之,夏,六月,戊辰,陳乞、鮑牧及諸大夫以甲入于公宮,昭子聞之,與惠子乗如公,戰于荘,敗,國人追之,國夏奔莒,遂及高張、晏圉,弦施來奔。
  5. ^ 史記・巻四十六・田敬仲完世家第十六》:景公太子死,后有寵姫曰芮子,生子荼。景公病,命其相國惠子與高昭子以子荼為太子。景公卒,兩相高、國立荼,是為晏孺子。而田乞不悦,欲立景公他子陽生。陽生素與乞歡。晏孺子之立也,陽生奔魯。田乞偽事高昭子、國惠子者,毎朝代驂乗,言曰:「始諸大夫不欲立孺子。孺子既立,君相之,大夫皆自危,謀作亂。」又詒大夫曰:「高昭子可畏也,及未發先之。」諸大夫從之。田乞、鮑牧與大夫以兵入公室,攻高昭子。昭子聞之,與國惠子救公。公師敗。田乞之衆追國惠子,惠子奔莒,遂返殺高昭子。晏圉奔魯。
  6. ^ 史記・巻四十六・田敬仲完世家第十六》:田乞使人之魯,迎陽生。陽生至齊,匿田乞家。請諸大夫曰:「常之母有魚菽之祭,幸而來會飲。」會飲田氏。田乞盛陽生橐中,置坐中央。發橐,出陽生,曰:「此乃齊君矣。」大夫皆伏謁。將盟立之,田乞誣曰:「吾與鮑牧謀共立陽生也。」鮑牧怒曰:「大夫忘景公之命乎?」諸大夫欲悔,陽生乃頓首曰:「可則立之,不可則已。」鮑牧恐禍及己,乃復曰:「皆景公之子,何為不可!」遂立陽生於田乞之家,是為悼公。乃使人遷晏孺子於駘,而殺孺子荼。悼公既立,田乞為相,專齊政。
  7. ^ 春秋左氏伝 哀公六年》:冬,十月,丁卯,立之,將盟,鮑子醉而往,其臣差車鮑點,曰,此誰之命也,陳子曰,受命于鮑子,遂誣鮑子曰,子之命也,鮑子曰,女忘君之為孺子牛,而折其歯乎,而背之也,悼公稽首曰,吾子奉義而行者也,若我可,不必亡一大夫,若我不可,不必亡一公子,義則進,否則退,敢不唯子是從,廢興無以亂,則所願也,鮑子曰,誰非君之子,乃受盟,使胡姫以安孺子如賴,去鬻姒,殺王甲,拘江説,囚王豹于句竇之丘,公使朱毛告於陳子曰,微子則不及此,然君異於器,不可以二,器二不匱,君二多難,敢布諸大夫,僖子不對而泣,曰,君挙不信群臣乎,以齊國之困,困又有憂,少君不可以訪,是以求長君,庶亦能容群臣乎,不然,夫孺子何罪,毛復命,公悔之,毛曰,君大訪於陳子,而圖其小,可也,使毛遷孺子於駘,不至,殺諸野幕之下,葬諸殳冒淳。