斎藤 良輔(齋藤、さいとう りょうすけ、1846年8月9日弘化3年6月18日[1]) - 1909年明治42年)6月22日[1][2])は、明治時代の政治家衆議院議員(6期)。通称は喜代治[1]

斎藤良輔

経歴 編集

渡部喜七の二男として出羽国田川郡、のちの余目村(山形県東田川郡余目村、余目町を経て現庄内町)に生まれ、1856年安政3年)斎藤次郎兵衛の養子となる[1]。幼くして鶴岡の都丸広治に漢籍を学ぶ[1]。壮年期に猟銃事故で右目を失明した[1]1877年(明治10年)1月、余目村里正となり1879年(明治12年)1月[3]、跡村の戸長に就任する[1]1880年(明治13年)8月[3]山形県会議員に当選し、1886年(明治19年)同議長となった[1]1891年(明治24年)大津事件の際には県民総代慰問使として神戸へ赴いた[1]。ほか、町村連合会議員、水利土功会議員、東田川郡書記、県常置委員、徴兵参事員などを歴任した[2]

1892年明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では山形県第3区から出馬し当選[2]第4回第5回第7回第8回第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算6期務めた[2]。菁莪学校(のちの余目小学校)、鶴岡の私立庄内中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)の創設に尽くした[1]。また、北海道天塩の開墾と小作人の移住を実現させた[1]

脚注 編集

参考文献 編集