方言学

方言についての言語学

方言学(ほうげんがく、英語:dialectology)とは、方言についての言語学[1][2][3]

概要 編集

研究対象とするのは方言であるが、そもそも方言と言語との区別は必ずしも明確でない。例えば上海語中国語の一方言であるが[4][5][6]北京語を母体とする普通話との差は、別々の言語とされるスペイン語ポルトガル語以上に大きい。

つまり、純粋に言語構造としての見方と、社会国家の下での言語の見方は、必ずしも一致しないわけである。

歴史 編集

近代以前 編集

方言学は「ことばの地域差」を意識するところから始まる[7]。というのも、一般に方言学が関心を寄せるのは、言語の地域変種または社会変種としての特性、その成因、分布、通時的変化などであり、いわば一般言語学とはある程度違う視点を持つからである[8]。その例として顕著なものに「古語は方言に残る」という考えがある。これは藤原定家の作と伝えられている歌学書『愚秘抄』(平安末期頃に成立か)が最初とされる[9]。また明覚の『悉曇要訣』(1101年頃に成立か)にも類似した思想が見られる[10]

方言についての体系的記述は、イエズス会ロドリゲスによる文法書『日本大文典』に見られる[11]。これは地域差の事実を記述したものとして厚みがあるが、発音文法が主で語彙の記述はなく、すぐに研究を発展させるものには成り得なかった[12]。なお『日葡辞書』には約400語の方言が所収されている[13]

江戸時代に入ると、「古語は方言に残る」という考えは一層有力になる。例えば本居宣長の『玉勝間』や荻生徂徠の『南留別志』などに、そのような旨の言及が見られる[14]。この他に安原貞室の『片言』や小林一茶の『方言雑集』など、俳人たちによる文献がある[13]。とりわけ越谷吾山の『物類称呼』は大規模な方言集で、各地の異称を同一平面上に並べてみようとする姿勢から[15]、忘れ去られた可能性のある方言語彙を数多く記載している[16]

近代以降 編集

明治以降、いわゆる標準語の形成に関心が高まると、国家的規模の方言調査が、文部省内に設置された国語調査委員会によって執行された。学術的な研究調査の成果として、とりわけ『音韻調査報告書』(1905年)や『口語法調査報告書』(1906年)などが注目される[17]。しかし、1913年に国語調査委員会は行政整理の名の下に廃止され、その膨大な資料も関東大震災によって焼失した[18]

こうして方言学は、大正時代に一旦は衰退したが、昭和時代の初期に至って再び活況を呈するようになった。1927年東条操の「方言区画論」と、柳田國男の「方言周圏論」が発表されたのである。東条は『大日本方言地図』と『国語の方言区画』を出版し、全国を「内地」と「琉球」に分類し、次いで「内地」を「本州」と「九州」に細分化し、さらに「本州」を「東部」「中部」「西部」に細分化した[18]。その後、幾度の修正を加えていき、最終的には「東部方言」「西部方言」「九州方言」に落着した[19]。一方で柳田は、「日本の各地では蝸牛をどのように呼ぶのか」という問題意識に基づいた論文蝸牛考」を『人類学雑誌』に連載した[20]。柳田は「京都を中心として同心円状に分布している」という事実から、「方言は文化の中心地で生まれた言葉が順次周囲に拡散して成立したもの」とした[18]。なお、柳田は「蝸牛考」以外にも方言に関係する文章を多く執筆している[21]

この他に注目すべき研究としては、比較言語学方法論を応用して方言間の比較から祖語再構しようとする比較方言学がある[22]。例えば服部四郎は、諸方言のアクセントに整然とした型の対応が見られることを指摘し、比較言語学の手法によって系統について論じた[23]。こうした服部の研究は、とりわけアクセント方面において、金田一春彦平山輝男などを中心に発展した[24]

戦後には、国立国語研究所のような機関によって大規模な共同研究が開始されるようになり[注釈 1]、各地の方言全体を体系的に扱うようになったほか、社会構造などから多角的に追究されるようになった[26]

隣接した分野 編集

方言学は民族学歴史学社会学民俗学地理学など、周辺分野との学際的な研究が多い。例えば言語地理学では、方言の地理的分布を元に言語史を追究する[27][28]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 研究資料として『日本言語地図』などを刊行している[25]

出典 編集

  1. ^ Chambers, J. K., & Trudgill, P. (1998). Dialectology. Cambridge University Press.
  2. ^ 金田一春彦 (1977).
  3. ^ 小林英夫 (1928).
  4. ^ Lance Eccles, Shanghai dialect: an introduction to speaking the contemporary language. Dunwoody Press, 1993. ISBN 1-881265-11-0.
  5. ^ Chen, Yiya; Gussenhoven, Carlos (2015), "Shanghai Chinese", Journal of the International Phonetic Association, 45 (3): 321–327, doi:10.1017/S0025100315000043
  6. ^ 小田格 (2018).
  7. ^ 宮治弘明 (1991), p. 242.
  8. ^ 窪薗晴夫 (2015).
  9. ^ 徳川宗賢 (1977), p. 330.
  10. ^ 日野資純 (1961), pp. 440–441.
  11. ^ 日野資純 (1961), p. 441.
  12. ^ 徳川宗賢 (1977), p. 332.
  13. ^ a b 日野資純 (1961), p. 442.
  14. ^ 徳川宗賢 (1977), pp. 330–331.
  15. ^ 徳川宗賢 (1977), pp. 331–332.
  16. ^ 宮治弘明 (1991), p. 243.
  17. ^ 日野資純 (1961), p. 443.
  18. ^ a b c 宮治弘明 (1991), p. 245.
  19. ^ 徳川宗賢 (1977), p. 343.
  20. ^ 日野資純 (1961), pp. 459–460.
  21. ^ 徳川宗賢 (1977), p. 364.
  22. ^ 徳川宗賢 (1974).
  23. ^ 宮治弘明 (1991), p. 246.
  24. ^ 徳川宗賢 (1977), pp. 354–356.
  25. ^ 宮治弘明 (1991), p. 248.
  26. ^ 日野資純 (1961), pp. 444–445.
  27. ^ 柴田武 (1969).
  28. ^ 徳川宗賢 (1993).

参考文献 編集

図書
  • 柴田武『言語地理学の方法』筑摩書房、1969年8月。 
  • 金田一春彦『日本語方言の研究』東京堂出版、1977年8月。ISBN 4490202458 
  • 徳川宗賢『方言地理学の展開』ひつじ書房、1993年10月。ISBN 4938669102 
論文集
  • 日野資純 著「方言研究の歴史」、佐伯梅友中田祝夫林大 編『国語国文学研究史大成15:国語学』三省堂、1961年2月、440-491頁。 (増補版、1978年7月)
  • 徳川宗賢 著「方言研究の歴史」、大野晋・柴田武 編『岩波講座日本語11:方言』岩波書店、1977年11月、327-378頁。ISBN 4000100718 
  • 大田栄太郎 著「方言研究史」、飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一 編『講座方言学3:方言研究の問題』国書刊行会、1986年5月、1-32頁。ISBN 4336019746 
  • 宮治弘明 著「方言研究史」、徳川宗賢・真田信治 編『新・方言学を学ぶ人のために』世界思想社、1991年2月、242-263頁。ISBN 4790703878 
雑誌
辞書類
  • 木部暢子 編『明解方言学辞典』三省堂、2019年4月。ISBN 9784385135793 

関連文献 編集

単著
  • 小林隆『方言学的日本語史の方法』ひつじ書房、2004年2月。ISBN 4894762005
  • 日高水穂『授与動詞の対照方言学的研究』ひつじ書房、2007年2月。ISBN 9784894763210
  • 小林隆『語用論的方言学の方法』ひつじ書房、2023年2月。ISBN 9784823411502
編著
  • 徳川宗賢編『日本の方言地図』中央公論社中公新書〉、1979年3月。ISBN 4121005333
  • 小林隆編『柳田方言学の現代的意義:あいさつ表現と方言形成論』ひつじ書房、2014年7月。ISBN 9784894767195
  • 小林隆編『感性の方言学』ひつじ書房、2018年5月。ISBN 9784894768987
  • 小林隆編『コミュニケーションの方言学』ひつじ書房、2018年5月。ISBN 9784894768970
  • 小林隆編『全国調査による言語行動の方言学』ひつじ書房、2021年3月。ISBN 9784823410710
  • 小林隆編『全国調査による感動詞の方言学』ひつじ書房、2022年11月。ISBN 9784823411670

関連項目 編集