日産・チェリー

日本の乗用車

チェリーCherry ) は、かつて日産自動車が販売していた乗用車である。

概要 編集

1966年8月に日産自動車に吸収合併されたプリンス自動車工業(以下、プリンス)が、日産に吸収合併される以前から次世代の前輪駆動車として開発していた車種である。日産に吸収合併された後も旧プリンス出身の社員を中心に、当時の旧プリンスの開発拠点であった東京都杉並区荻窪の荻窪事業所にて開発が続行され[注釈 1] [注釈 2][注釈 3]1970年に日産初の量産FF車として発売された。

パワートレインには、横置きエンジンシリンダーブロックの真下にトランスミッションを置きコンパクトにまとめる、ミニで有名ないわゆるイシゴニス式を採用した。

初代 E10型(1970年-1974年) 編集

日産・チェリー(初代)
E10型
 
4ドアセダン X-1
 
英国向けダットサン・100A(MC後)
概要
販売期間 1970年10月-1974年9月
設計統括 増田忠
ボディ
乗車定員 5名
ボディタイプ 2/4ドアセダン
3ドアファストバッククーペ
3ドアライトバン
(日本仕様のみ)
3ドアステーションワゴン
(日本仕様除く)
駆動方式 前輪駆動
パワートレイン
エンジン A12型(ツインキャブ)直列4気筒 OHV 1,171cc(80ps/6,400rpm 9.8kgm/4,400rpm)
変速機 3速 / 4速MT
サスペンション
ストラット式独立/コイルばね
トレーリングアーム式独立/コイルばね
車両寸法
ホイールベース 2,335mm
全長 3,610mm
全幅 1,470mm
全高 1,380mm
車両重量 670kg
その他
最高速度 160km/h
データモデル 4ドア1200X-1(1970年)
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クラス的にはカローラサニーに代表されるいわゆる「大衆車」クラスよりもやや下のトヨタ・パブリカと同クラスに属し、日本国内では初めて自動車を持つ若者や軽自動車からの乗り換え需要を主なターゲットとした。
搭載エンジンは直列4気筒OHV1,000ccA10型、および直列4気筒OHV1,200ccA12型ツインキャブ仕様(X-1)の2機種。サスペンションは前ストラット、後トレーリングアームの4輪独立で、前後ともコイルスプリングを用いた。
当初は4ドアセダンおよび2ドアセダンのみの設定だった。
ボディスタイルは丸みを帯びた凝縮感の強いもので、シンプルながら強い個性を持つ「セミファストバック」と呼ばれる個性的なボディスタイルが採用された[1]。サイドウインドウの形が特徴的で、前後をあわせると目の形に似ていたため「アイライン」と称された。またCピラーの造形は日本らしさを特徴とした車とするため富士山をモチーフとしたとも言われ、車名を「フジ」とすることも検討されたという。なおアメリカ車ではすでに1960年代からこのようなクォーターウインドウとピラー形状のスタイリングが取り入れられている。
コマーシャルソングとして作詞:山上路夫・作曲:村井邦彦・編曲:渋谷毅で「ラブリーチェリー」を制作。シンガーには赤い鳥が起用された。同曲は販促用非売品としてソノシート盤が制作されたほか、2003年に発売された12枚組CD-BOX『赤い鳥 コンプリート・コレクション 1969-1974』に収録された[注釈 4]
  • 1971年9月 - クーペ追加。冷却ファンがベルト駆動から電動に、フロントフェンダーフィレット幅を10 mm増大し全幅を1470

mmから1490 mmに、フロントピラーの板厚を0.1 mm増大、セダンのジャッキ格納位置をトランクルーム内から助手席下にそれぞれ変更。

  • 1972年3月 - A12型シングルキャブレター仕様 及び3ドアバン追加。バンのリヤサスペンションはセダンと異なりリーフリジットを採用し、当時業務提携していたいすゞ自動車藤沢工場で生産されていた。
    • 4月 - レース・ド・ニッポンに「クーペ」が参戦。その他の国内レースにも日産ワークスとして参戦した。なお、実際に当車に乗っていた星野一義トルクステア対策のため、敢えて左ハンドル化していたという
    • 6月 - マイナーチェンジ。前後バンパーの大型化、およびセダン系のテールランプの大型化など。
  • 1973年3月 - オーバーフェンダー付の「クーペ1200X-1・R」追加。
  • 1974年9月 - 上級クラスに移行した「チェリーF-II」が発売された後も、初代モデルは日産のラインナップの下端を受け持つ車種としてしばらくの間F-IIと併売された。生産中止後、その市場を直接受け継ぐモデルは長らく現れず、1982年マーチが発売されるまで日産では1000ccクラスは空白となった。
  • 1976年 - アクロポリスラリーにプライベーターの手により参戦。

販売終了前月までの新車登録台数の累計は21万9663台[2]

2代目 F10/11型(1974年-1978年) 編集

日産・チェリーF-II(2代目)
F10/F11型
 
F-IIクーペ1200
 
F-IIセダン1400GL
概要
販売期間 1974年9月-1978年11月
ボディ
乗車定員 5名
ボディタイプ 2/4ドアセダン
3ドアファストバッククーペ
3ドアライトバン
(日本仕様のみ)
3ドアステーションワゴン
(日本仕様除く)
駆動方式 前輪駆動
パワートレイン
エンジン A14型(シングルキャブ)直列4気筒 OHV 1,397cc(80ps/6,000rpm 11.5kgm/3,600rpm)
変速機 4速MT/3速セミAT
サスペンション
ストラット式独立/コイルばね
フル・トレーリングアーム式独立/コイルばね
車両寸法
ホイールベース 2,395mm
全長 3,825mm
全幅 1,500mm
全高 1,375mm
車両重量 755kg
その他
最高速度 160km/h
データモデル 4ドア1400GL(1974年)
系譜
後継 日産・パルサー
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  • 1974年9月 フルモデルチェンジ[3]。サブネームが付き正式には「チェリーF-II」となった。
初代よりも上級クラスに移行し、同じ日産ではサニーとほぼ同じクラスとなる。
機構的には初代を踏襲しており、A型エンジン、2階建てレイアウトの駆動系、前ストラット、後フル・トレーリングアームの4輪独立懸架などを受け継いでいる。
搭載エンジンは旧来のA12型に加え1,400ccのA14型が追加された。一方1,000ccのA10型は姿を消した。
ボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアセダン、3ドアクーペ及び3ドアバンの4種類。寸法的には、全長、全幅、ホイールベースがそれぞれ215mm、30mm、60mm拡大された(4ドア)。
初代チェリーはシンプルでありながら強い個性を持ったボディスタイルもその大きな特徴だったが、F-IIではそのどちらも影を潜め、当時の他の日産車によく似た没個性的なボディスタイルとなった。一方で、初代、特にクーペで劣悪だった後方視界は幾分改善された。
初代チェリーではイメージキャラクターを起用していなかったがF-IIからは、フルモデルチェンジ直後は秋吉久美子、次いで佐藤允が起用された。特に秋吉を起用した時のキャッチコピー「クミコ、君を乗せるのだから。」は継続的に使用したことから同車の2代目としての印象をより確かなものにした[4][5][6][7]
1977年2月にマイナーチェンジを行い新たなキャッチフレーズとして「黄色いチェリー」を採用。当時の日産としては珍しく車体色を前面に出して売り出した[8][9][10][11]
テレビドラマでは、同じ日産のブルーバードセドリックスカイラインに比べれば登場する頻度は少なかったが佐藤がレギュラー出演した『透明ドリちゃん』(1978年テレビ朝日)では佐藤自らが運転するシーンがあるほか近年では『MOZUスピンオフ 大杉探偵事務所』(2015年TBS)で主演の香川照之が運転するシーンがある[12][13][14][15]
  • 1975年10月 - 1400が昭和50年排出ガス規制に適合。
    • 12月 - 1200が昭和51年排出ガス規制に適合。
  • 1976年2月 - 1400が昭和51年排出ガス規制に適合。
    • 3月 - ツインキャブレター装着の「1400 GX TWIN」発売。
    • 11月 - 「スポーツマチック」と称する3速セミAT搭載車が設定される。
  • 1977年2月 - マイナーチェンジ。
  • 1978年 - スウェディッシュラリーにプライベーターの手により参戦。
    • 5月 - チェリーF-II4ドアセダンの後継モデルとしてパルサー(セダン)(N10型)が登場し、4ドアセダンが先行終売。
    • 9月 - パルサーに3ドアハッチバック(チェリーF-II2ドアセダンの後継モデル)及び3ドアクーペ(チェリーF-IIクーペの後継モデル)、3/5ドアライトバン(チェリーF-IIバンの後継モデル)が追加され、2ドアセダンとクーペがそれぞれ終売。
    • 11月 - パルサーに5ドアバン(チェリーF-IIバンの後継モデル)が追加され、最後まで残っていた3ドアバンが終売。2代目の累計販売台数は約30万台[3]。チェリーは8年の歴史に幕を下ろした[注釈 5]

車名の由来 編集

」を示す英語「Cherry」から。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 荻窪事業所ではチェリーのほかスカイライン(R30型まで)、ローレル(C31型まで)、レパード(初代F30型)、プレーリー(初代M10型)、マーチ(初代K10型)の開発も手がけていた。
  2. ^ 荻窪事業所は中島飛行機東京工場時代から続く旧プリンスの製造開発拠点で、戦後GHQの命により中島飛行機が解体され、その中の一つが富士産業→富士精密工業となり荻窪に残った自動車の開発拠点として、主にスカイラインをはじめ旧プリンス時代から続くブランドの車やFF車の開発を担当していたが、1981年11月に神奈川県厚木市に完成した大型研究開発施設のテクニカルセンターへ日産旧来の開発拠点であった鶴見の横浜事業所らとともに集約され、自動車の開発拠点としての使命を終えた。
  3. ^ 日産は旧プリンスが中島飛行機時代から荻窪事業所で行っていたロケット開発を引き継いで宇宙航空事業に参入しており、1998年に宇宙航空事業部が群馬県へ移転するまで荻窪事業所は存在していた(その後、宇宙航空事業部は2000年に石川島播磨重工業へ部門ごと売却され、現在のIHIエアロスペースとなる)。
  4. ^ レアトラックスとしたDISC12 TRACK21に収録されたが、同コレクションでのタイトル表記は「ラブリー・チェリー」と中黒が入る。
  5. ^ 海外市場ではパルサーのN10型系(1978年 - 1982年)、N12型系(1982年 - 1986年)をチェリーとして販売していたが、単一の系譜としては、かつ日本市場での呼び名としてはこの代で最後となる。

出典 編集

  1. ^ 絶版日本車カタログ 三推社・講談社 p60
  2. ^ デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第63号3ページより。
  3. ^ a b デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第94号9ページより。
  4. ^ 「くみこ、君を乗せるのだから」…わかる人は見てね。 秋吉久美子”. Middle Edge(ミドルエッジ). 2021年9月29日閲覧。
  5. ^ クミコ、君をのせるのだから。”. みんカラ. 2021年9月29日閲覧。
  6. ^ https://twitter.com/paulnakahara/status/713702752912859136/photo/1”. Twitter. 2021年9月29日閲覧。
  7. ^ X - 1の血統”. 2021年9月29日閲覧。
  8. ^ TheDreamFactory (2015年7月23日). “あの頃の黄色いチェリー”. Forever ホビーらいふ. 2021年10月2日閲覧。
  9. ^ 日産 1974 チェリーF-2(F10型)”. www.wald-licht.com. 2021年10月2日閲覧。
  10. ^ cangee. “🚗日産チェリー F-Ⅱ/佐藤允 1977年広告”. ✌՞ਊ՞)✌. 2021年10月2日閲覧。
  11. ^ MF誌' 77/06号 広告日産チェリーF-Ⅱ”. みんカラ. 2021年10月2日閲覧。
  12. ^ TBS. “MOZUスピンオフ 大杉探偵事務所〜美しき標的編|ドラマ・時代劇|TBS CS[TBSチャンネル]”. TBS CS[TBSチャンネル]. 2021年9月29日閲覧。
  13. ^ https://twitter.com/senter_of_info/status/1320096023369437186/photo/1”. Twitter. 2021年10月2日閲覧。
  14. ^ https://mobile.twitter.com/rsichiroku/status/661206890525802496/photo/1”. Twitter. 2021年10月2日閲覧。
  15. ^ https://twitter.com/grahoo/status/661179708478849025”. Twitter. 2021年10月2日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集