旭山城

長野県長野市にあった城

旭山城(あさひやまじょう)は、信濃国水内郡長野村旭山(現在の長野県長野市平芝)[1]にあった日本の城山城)。

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旭山城
長野県
旭山城主郭部
旭山城主郭部
別名 朝日山城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 栗田鶴寿?
築城年 室町時代
主な改修者 長尾景虎(上杉謙信)
主な城主 栗田氏(長尾氏・武田氏・上杉氏)
遺構 石垣堀切、竪堀、横堀
指定文化財 なし
位置 北緯36度39分16.282秒 東経138度09分46.225秒 / 北緯36.65452278度 東経138.16284028度 / 36.65452278; 138.16284028
地図
旭山城の位置(長野県内)
旭山城
旭山城
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概要 編集

 
川中島の戦い拡大

旭山城の築城時期は不明だが、かなり古い時代から置かれてらしく戦国時代初期には村上氏に属した朝日右近と言う守将が居たと伝えられている。

第二次川中島の戦い 編集

天文24年(1555年)、第二次川中島の戦いで、善光寺別当栗田鶴寿(栗田寛久)は武田晴信(武田信玄)と通じ、鉄砲300と弓800、兵3000の支援を受けて善光寺の西にあるこの旭山城に籠もった。

長尾景虎(上杉謙信)は、善光寺東側にある横山城に陣を構えていたが、謙信は付城となる葛山城裾花川対岸の山上に築いた。

対陣は数ヶ月に及んだが、今川義元の仲介で和議が成立した。和議の条件として旭山城の破壊が盛り込まれ、破壊された。

第三次川中島の戦い 編集

弘治3年(1557年)、第三次川中島の戦いで、弘治3年(1557年)武田軍が葛山城を急襲し落城させると、翌年、長尾景虎も雪解けを待って出陣し旭山城を再建し守兵を置いた。

第四次川中島の戦い 編集

永禄4年の第四次合戦では越後軍の川中島進出や引き上げの際には重要な役目を果たし、特に退陣の小荷駄隊が犀川小市の渡しを渡河する際には旭山城を駆け下りた守兵の援護で、武田軍の追撃をかろうじて振り切ったと伝えられている。

永禄4年(1561年)冬、謙信が越後から出られなくなると、時の守将であった小柴見宮内(小柴見城主)は援護を得られず武田方に滅ぼされ、記録に出なくなったので廃城になったと思われる。

遺構 編集

構造としては、石垣の痕跡が主郭などにあり、何本もの堀切や竪堀、そして横堀の存在も認められる[2]

  • 主郭跡 - 「朝日山城」城址碑。
  • 物見台 - 川中島古戦場や長野駅などが眺望できる。

交通 編集

脚注 編集

  1. ^ 「角川日本地名大辞典 20 長野県」
  2. ^ 横堀については、長野県では珍しく、武田氏築城と考えられる葛山城静岡県裾野市)などにみられ、武田方の城である時代に築かれたと推測される(三島正之「川中島合戦と城郭-関連城郭から展望する合戦の実像-」(『中世城郭研究』第20号、2006年)。

参考文献 編集

関連項目 編集