有田 喜一(ありた きいち、1901年4月30日 - 1986年2月9日)は、日本政治家[1]逓信及び運輸官僚文部大臣(第87代)、科学技術庁長官(第17代)、防衛庁長官(第24代)、経済企画庁長官(第22代)、衆議院議員(9期)。

有田 喜一
ありた きいち
生年月日 (1901-04-30) 1901年4月30日
出生地 日本の旗 兵庫県氷上郡氷上町(現丹波市
没年月日 (1986-02-09) 1986年2月9日(84歳没)
出身校 東京帝国大学経済学部卒業
前職 国家公務員
所属政党民主党→)
国民民主党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党岸派福田派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章

内閣 第1次田中角栄内閣
在任期間 1972年7月12日 - 1972年12月22日

日本の旗 第24代 防衛庁長官
内閣 第2次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1968年11月30日 - 1970年1月14日

内閣 第1次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1966年8月1日 - 1966年12月3日

選挙区 旧兵庫5区
当選回数 9回
在任期間 1949年1月23日 - 1958年4月25日
1960年11月20日 - 1976年12月9日
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経歴 編集

兵庫県氷上郡氷上町(現丹波市)出身。旧制兵庫県立柏原中学校第八高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。逓信省大阪逓信局長や運輸省海運総局長を経て政界入り。政治家となってからは芦田均と行動をともにしたが、保守合同により自由民主党が結成されると旧芦田派の一部とともに岸派に入り、岸派の分裂後は福田派に属した。福田赳夫の右腕といわれ、福田が自民党幹事長を務めていた1966年その下で党経理局長を務めた。同年第1次佐藤第2次改造内閣文部大臣科学技術庁長官として初入閣。1968年第2次佐藤第2次改造内閣防衛庁長官として入閣。1972年第1次田中角栄内閣経済企画庁長官として3度目の入閣。1976年の衆院選で落選し引退。

1973年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。

実直かつ寡黙な性格で知られ、外航船舶建造利子補給法の立案者でありながら、その立法をめぐる造船疑獄に全く無関係だった。

年譜 編集

エピソード 編集

  • 船舶公団総裁時代に、第1次計画造船の推進役として戦後の造船業復興にあたった。
  • 防衛庁長官時代に第4次防衛力整備計画を編成し、初の国防白書を公表した。
  • 同じ運輸省だった佐藤栄作と共に吉田茂松野鶴平から政界入りを誘われたが、実兄の岸信介の薦めもあって自由党からの出馬を選んだ佐藤に対し、有田は芦田首相下で官房次長を務めた手前もあって民主党から出馬。共に1949年衆院選で初当選を飾った。

脚注 編集

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年、63頁。
  2. ^ 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年、p.526
  3. ^ 国会史 上巻、p.688
  4. ^ 国会史 中巻、p.60
  5. ^ 国会史 中巻、p.944
  6. ^ 『官報』第17702号7-8頁 昭和61年2月17日号

参考文献 編集

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 国会史 上巻』1990年
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 国会史 中巻』1990年
公職
先代
田中角栄
(事務取扱)
  経済企画庁長官
1972年
次代
小坂善太郎
先代
増田甲子七
  防衛庁長官
1968年 - 1970年
次代
中曾根康弘
先代
中村梅吉
  文部大臣
1966年
次代
剱木亨弘
先代
上原正吉
  科学技術庁長官
1966年
次代
二階堂進
先代
上原正吉
  総理府原子力委員会委員長
1966年
次代
二階堂進
先代
福島慎太郎
  内閣官房次長(政務担当)
1948年
次代
橋本龍伍
議会
先代
木村俊夫
  衆議院外務委員長
1974年 - 1975年
次代
栗原祐幸
先代
新設
  衆議院石炭対策特別委員長
1961年- 1962年
次代
上林山栄吉
先代
新設
  衆議院科学技術振興対策特別委員長
1955年 - 1956年
次代
菅野和太郎