有道 佐一(ありみち さいち、1896年 - 1983年)は、日本の芸術家・画家[1][2][3]

有道 佐一

SAICHI ARIMICHI

JP
有道佐一肖像
誕生日 1896年
死没年 1983年
国籍 日本の旗 日本
代表作 山家村
ウェブサイト https://www.instagram.com/arimichisaichi/?igshid=OGQ5ZDc2ODk2ZA%3D%3D
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生涯 編集

1896年(明治29年)3月27日、京都府綾部市(旧:何鹿郡志賀郷村)父有道亀松・母そのの長男として生まれる。

1906年(明治39年)10歳 綾部市山家(旧:山家村)へ移転。尋常小学校の頃から佐一の学業に対し校長からも認められ指導支援を受けた。佐一の存在は郡長も知るところとなり応援され、卒業後も学校の給仕をしながら学業を継続。

1913年(大正2年)17歳 大島傳次郎(山家小学校長、後に京都市郁文小学校長)の紹介で、京都師範学校教諭の井上松治に師事。

1914年(大正3年)18歳 山家へ写生旅行中の鹿子木孟郎(かのこぎ たけしろう 洋画家 関西美術院長・文展主要メンバー)の知遇を得、指導を受ける。

1916年(大正5年)20歳 召集により朝鮮警備兵に就く。

1924年(大正13年)28歳 京都の鹿子木孟郎宅に書生として住み込む。

1924年(大正13年)28歳 中国に渡り、上海・蘇州・杭州等を巡遊。

1926年(大正15年)30歳 明治神宮の委嘱により奉天入場の図のため、鹿子木と共に渡満。奉天で画業研究。

1928年(昭和3年)32歳 鹿子木塾の助教授兼幹事となり、同時に大阪鹿子木アカデミー教授及び師の助手となる。

1935(昭和10年)39歳 鹿子木の薦めにより渡欧。パリを中心に活動。スイスのアルベルト・ジャコメッティーAlberto Giacometti(彫刻家・画家)に見出される。

1936年(昭和11年)40歳 ジャコメッティの推薦によりフランスのサロン・デ・チュイルリーSalon des Tuilerie(会長:前総理エリオ、副会長:オトン・フリエッ、会員にはマチスやドラン等)の客員に日本人最初のメンバーとして推薦され、ルーブル学生証も交付される。その後、ドイツ・ベルギー・オランダ等歴遊。

1936年(昭和11年)40歳 欧州より帰国。画家として独立。

1937年(昭和12年)41歳 帰国後、同僚の画家の上京や既成の団体・中央画壇への誘いを一顧だにせず、山家に帰郷。両親を助け、余暇には小学校の先生を教えたりしながら独自の境地を拓く。即ち、大自然を愛し、凝視してその妙諦を把握し、神人一体の境地においてこれを表現しようとした。日本の画会に名を得て、小成に安じることなどを決してしようとはしなかった。

1938年(昭和13年)42歳 5月、由良金一を会長に、片岡久兵衛・波多野林一・村上頼太郎ら二十余名の当時の綾部・福知山を代表する著名人を発起人として「有道会」が組織される。

1940年(昭和15年)44歳 画室(アトリエ)を山家の自宅屋敷内に新築。『則神居』と命名し自らの号とする。

1941年(昭和16年)45歳 師であった鹿子木孟郎没(享年66歳)。

1979年(昭和54年)83歳 東京セントラル美術館などで個展をひらく。

1983年(昭和58年)87歳 綾部市山家にて没。卓越した技量を広く世に知られることもないまま清貧と呼べる生涯を終えた。

1996年(平成8年)11月、綾部市グンゼ集蔵(つどいくら)『有道佐一生誕100年記念展』開催

1997年(平成9年)11月、京都文化博物館『有道佐一油彩画展』開催(あやべ市民ギャラリー・朝日新聞京都支局共催)

2023年(令和5年)4月、京都府綾部市グンゼ博物苑 集蔵「有道佐一回顧展」6日間開催。3,400人来場。

個展 編集

  • 1940年(昭和15年) 東京 丸の内 日本工業倶楽部
  • 1951年(昭和26年) 京都 四条  大丸デパート
  • 1971年(昭和46年) 東京 銀座  資生堂ギャラリー
  • 1979年(昭和54年) 東京 銀座  セントラル美術館
  • 1979年(昭和54年) 京都 綾部  綾部商工会議所
  • 1996年(平成8年) 京都 綾部  グンゼ博物苑 集蔵
  • 1997年(平成9年) 京都 御池  京都文化博物館
  • 2011年(平成23年) 京都 綾部  グンゼ博物苑 集蔵
  • 2023年(令和5年)4/5~10 京都 綾部 グンゼ博物苑 集蔵
  • 2024年 (令和6年) 8/6〜8/18 京都市京セラ美術館にて開催いたします。皆様のご来場お待ちしております。

掲載 編集

随筆「心に花を」花園大学学長 山田無文(やまだむもん)著 発行1964.9.30 春秋社より

 この山の雑木(ぞうき)の紅葉が、毎年毎年いいようもなくすばらしいのです。

 毎日カンバスに向かって、「これでもか、これでもか」と、とりくんでおるのですが、山はわたくしに、「まだまだ、もっと来い、もっと来い、もっと来い」といってひきずって行くのです。

 わたくしは来る日も来る日も、来る年も来る年も、この山と血みどろになってとりくんでおるのです。

 わたくしは20年来この山ばかり見つめ、この山ばかり描いておるのですが、それでも悲しいことに、まだこの山の真実がつかめないのです。あるいは、つかめたかと思っても、それがあらわせないのです。

 わたくしは他人(ひと)のように他所(よそ)へ写生に出たり、いろいろさまざまなものを描くひまさえないほど、この山一つにとりくんでおるのです。この山一つが、わたくし一代描いても描ききれないような、底しれぬ真実をもって迫ってくるのです。

 と、しみじみ語る、わたくしの尊敬する隠れたる山の画家有道氏は、生活の貧しさにたえ、世間の嘲笑(ちょうしょう)に堪えつつ、涙ぐましく一生を山ととりくんでおられるのです。

 「これがわたくしの近ごろの心境です」と氏が即興(そっきょう)に描いて贈られた淡墨画(たんぼくが)には、秋草に虫が添えられ、その上に、

 虫きいておのれも虫になりにけり

と賛(さん)がしてあった。

 虫を聞いておれば、おのれも虫になってしまう心境、紅葉を観ておれば、紅葉がおのれになってしまう心境、山を観ておれば、おのれも山になってしまう心境、それが芸術家の真骨頂(しんこっちょう)でありましょう。

作品 編集

 
山家村【代表作】1940年 油絵 F20
 
由良川上流の朝 1940年 油絵 F15
 
エッフェル塔【パリ】 1936年 水彩画
 
由良川 1941年 油絵 P10
 
巴里 セーヌ中島西端にて 1936年6月25日 油絵 F6

ウェブサイト 編集

http://arimichi.html.xdomain.jp/image/sample.html 公式ホームページ https://instagram.com/arimichisaichi?igshid=OGQ5ZDc2ODk2ZA==インスタグラム

  1. ^ 綾部市/画家・有道佐一(ありみちさいち)”. www.city.ayabe.lg.jp. 2022年11月22日閲覧。
  2. ^ 有道佐一・絵画・兵庫県の画家・ジャコメッティ”. www.ne.jp. 2022年11月22日閲覧。
  3. ^ https://twitter.com/museumnews_jp/status/1023071881266511872”. Twitter. 2022年11月22日閲覧。

外部リンク 編集