有馬 晴姫(ありま はるひめ、1820年文政3年) - 1903年明治36年)12月7日)は、久留米藩第10代藩主有馬頼永の正室。院号は晴雲院

晴姫

生涯 編集

薩摩藩島津斉宣の十二女として江戸高輪の島津邸で生まれる。母親は島津久尹の養女某。天保8年(1837年)に兄である島津斉興養女になり、18歳で久留米藩の世子だった頼永に嫁いだ。藩主となった頼永は藩政改革の手始めとして、同年に江戸の3藩邸に大検令を発布した。それに伴い晴姫は着用していた絹服から綿服をまとい、金銀の装身具をやめて真鍮や竹木製のものを身に付けるなど、質素倹約の範を垂れた。

頼永は弘化2年(1845年)に晴姫を江戸に残し、藩主として初めて入封して藩政改革に尽くすが、再び晴姫と会うことはなく、翌弘化3年7月3日1846年8月24日)に26歳で死去した。頼永の訃報に接した晴姫は、晴雲院と号して法華経を一字一石に写し、さらに仏像数体を彫刻して、これらの全てを江戸祥雲寺の頼永の遺髪塔側に埋め、ひたすら冥福を祈った。晴姫は頼永が亡くなって18年後の文久3年(1863年)2月に、44歳で初めて久留米に入った。それから9年間、市の上別邸で暮らし、梅林寺の頼永の墓前で心ゆくまで冥福を祈るのを喜びとした。

その後、東京の赤羽邸、1871年(明治4年)に赤坂牛鳴坂(弾正屋敷)、1872年(明治5年)に日本橋蛎殻町1876年(明治9年)に浅草区橋場町と本邸の移転に伴い転居を重ねた。

和歌茶道生花押絵絵画など諸芸に秀で、絵画は特に花卉類を得意として描いた。 また和歌は本所区林町に住む鶴久子に学んで、詠草が秀逸なものが120余首あり、晴姫没後の1904年(明治37年)10月に御歌所寄人の小出粲が歌を撰んだ「雲のゆくへ」と題した冊子が同年11月30日に有馬家にて発行された。 久留米に初めて入る時、和歌を交えた旅日記の紀行文を書いている。


1897年(明治30年)10月頃より病気を患い、初めは浅田宗伯、次に高松凌雲が拝診したが1903年(明治36年)12月7日に没した。享年84。墓は祥雲寺にある。夫の頼永の隣に葬られた。

血縁 編集

参考文献 編集