服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日嘉永4年2月11日) - 1929年昭和4年)1月25日)は明治時代日本文部内務官僚。族籍は山口県士族[2]

服部 一三
はっとり いちぞう
生年月日 (1851-03-13) 1851年3月13日嘉永4年2月11日
出生地 周防国吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市
没年月日 (1929-01-25) 1929年1月25日(77歳没)
出身校 ラトガース大学理学部
称号 従二位勲一等
理学修士(ラトガース大学・1878年)[1]
法学博士(ラトガース大学・1900年)[1]
配偶者 スズ
子女 鉄太郎(長男)、兵次郎(次男)、四郎(四男・渡辺ヒサ養子)
親族 渡辺兵蔵(実父)、名和道一(養父)

選挙区勅選議員
在任期間 1903年7月15日 - 1929年1月25日

在任期間 1900年10月25日 - 1916年4月28日

在任期間 1898年12月28日 - 1900年10月25日

在任期間 1898年7月28日 - 1898年12月28日

在任期間 1891年4月24日 - 1898年7月28日
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東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長・予備門長、大阪専門学校(京都大学の前身の1つ)綜理、日本地震学会初代会長、東京大学法学部初代学部長、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、文部省普通学務局長、岩手広島長崎兵庫の各県知事貴族院議員を歴任した。

経歴 編集

長州藩槍術指南渡辺兵蔵の三男として周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)で誕生する[3]幼名は猪三郎、元服の頃に愷輔、のちに一三と名を改める[3]安政4年(1857年)の頃に郷校憲章館に入学[註 1]、このときの学頭が片山哲次郎(後の名和緩)で、慶応元年(1865年)ごろ哲次郎の養子となり、哲次郎が生家の服部家の名を継ぐ際に一三も服部を名乗るようになった[3]。同年、長州藩遊撃隊に入隊した[3]。慶応3年4月1867年5月頃)、河瀬真孝長崎追従の許可をきっかけに明治2年11月1869年末)まで長崎で洋学を学んだ[3]。長崎ではのちのイギリス総領事となるロバートソン、同アストンに師事するとともに、大隈重信致遠館岩倉具視の子である具定具経兄弟とともに大隈やフルベッキから教えを受けた。一三は伊藤博文井上馨の居宅で生活し渡航の機会を窺がっていた[3]

明治2年末、アメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックへの官費留学が決定され岩倉兄弟とともに一三も留学した[3]。アメリカ留学時は上司の森有礼ともどもトマス・レイク・ハリスが設立した新興宗教「新生兄弟会」の影響を受けた[3]。同地でラトガース大学に学び、明治8年(1875年)6月、同大理学部を卒業し、理学士B.S.)の学位を取得した。同年8月に帰国し、翌月、文部省に入省し督学局雇となる。明治8年11月、東京英語学校長心得に就任し、同校長、東京大学予備門主幹、兼東京大学法学部・文学部綜理補、大阪専門学校綜理、東京大学法学部長兼同予備門長 [4]などを歴任し、明治15年(1882年)2月、東京大学幹事となる[5][6]。また、明治13年(1880年)には東京大学へ後漢の学者張衡候風地動儀の図を画工に描かせて寄贈した縁により、日本地震学会の初代会長に推薦され就任している[3]

明治17年(1884年)10月、農商務省御用掛に発令され、ニューオーリンズで開催の万国工業兼綿百年期博覧会(en:World Cotton Centennial)に参列し、明治19年(1886年)1月まで欧州各国を視察した。同年3月、文部省書記官に就任し、兼文部省参事官、同省普通学務局長を務めた。明治24年(1891年)4月、官選により岩手県知事に転じ、以後、広島県知事長崎県知事兵庫県知事を歴任。大正5年(1916年)4月に辞職した[3][註 2]。明治36年(1903年)7月15日、兵庫県知事在任中に貴族院勅選議員に任命され[7]同和会に属し死去するまで在任した。大正8年(1919年)4月、万国議員商議員としてベルギーを訪問、同年11月、神戸商工会議所内に国際連盟神戸支部を開設し同支部長を務めた[3]昭和元年(1926年)、平沼騏一郎が会長となっていた国本社の神戸支部長に就任した[3]。大正5年(1916年)6月19日、錦鶏間祗候に任じられた[8]。墓所は青山霊園1-イ-6。

人物 編集

一三は浮世絵や近世絵画の蒐集家としても著名であり、その量は1万枚にも達する。上村松園伊藤小坡の弟子たちは鑑賞のために服部邸を訪れている。その膨大な蒐集品は東京帝室博物館(現 東京国立博物館)に間借りして保管されていた[3]。住所は兵庫県武庫郡西灘村岩屋[2](現神戸市)。

栄典・受章・受賞 編集

位階
勲章等
外国勲章等佩用允許

著作 編集

  • 戦のあと』 服部一三編輯、服部一三、1920年2月
  • 『雲嶺歌集』 服部節子編、服部節子、1929年12月
    • 勝田銀次郎編纂 『服部一三翁景伝』 服部翁顕彰会、1943年12月 - 抄録
  • 「詩文撰」(前掲 『服部一三翁景伝』)
記録・回顧録
  • 東京英語学校年報」(『文部省第四年報附録 第一』)
  • 大阪専門学校年報」(『文部省第七年報附録』)
  • 「我国最初の小学校令」(東京朝日新聞政治部編 『その頃を語る』 東京朝日新聞発行所、1928年10月)
  • 服部一三氏の談話」(妻木忠太著 『史実参照 木戸松菊公逸話』 有朋堂書店、1935年4月)
  • 「書簡集」「外遊日誌」(前掲 『服部一三翁景伝』)

脚注 編集

註釈 編集

  1. ^ 郷校憲章館では同門に同郷出身の内海忠勝がおり、後年の知事時代にも手紙のやり取りをするなど二人の付き合いは長期に亘った[3]
  2. ^ 一三は辞表に「病気や一身上の理由ではなく後進に道を譲る気持ちから職を辞する」と記述している[3]

出典 編集

  1. ^ a b Catalogue of the officers and alumni of Rutgers College (originally Queen's College) in New Brundswick, N. J. 1766 to 1916. State Gazette Publishing Co., Printers, 1916. p. 166.
  2. ^ a b 『人事興信録 第8版』ハ50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 伏谷。
  4. ^ 『東京大学百年史 通史』 Ⅰ、東京大学、1984年1月、561頁。"同年〔明治十四年〕七月十四日、東京大学法理文三学部総理補兼東京大学予備門主幹服部一三(十三年四月、濱尾新が文部省書記官へ転任したあと服部が同職に再任)が東京大学法学部長兼東京大学予備門長に就任した。"。 
  5. ^ 知事服部一三とその史料
  6. ^ 伏谷聡「知事服部一三とその史料――兵庫県公館県政資料館所蔵の服部一三知事関係資料について」『新兵庫県の歴史』第1号、兵庫県公館県政資料館 歴史資料部門、2009年3月31日、55-67頁、 オリジナルの2023年4月4日時点におけるアーカイブ“表1 服部一三履歴” を参照。
  7. ^ 『官報』第6011号、明治36年7月16日。
  8. ^ 『官報』第1165号、大正5年6月20日。
  9. ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
  10. ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  11. ^ 『官報』第2703号「叙任及辞令」1892年7月2日。
  12. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  13. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  14. ^ 『官報』第1310号附録、1916年12月13日、2頁
  15. ^ 『官報』第623号「叙任及辞令」1929年1月29日。
  16. ^ 『官報』第5778号「叙任及辞令」1902年10月6日。
  17. ^ 『官報』第7437号、1908年4月15日、310頁

参考文献 編集

  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 衆議院参議院編 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』 1990年11月
  • 秦郁彦編 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、2002年5月、ISBN 4130301209
  • 日外アソシエーツ編 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』 日外アソシエーツ、2003年10月、ISBN 4816918051
  • 伏谷聡 「知事服部一三とその史料 : 兵庫県公館県政資料館所蔵の服部一三知事関係資料について」(『新兵庫県の歴史』第1号、2009年3月NAID 40016654183
  • 服部一三授爵ノ儀ニ付上奏ノ件」(国立公文書館所蔵 「諸雑公文書」)

関連文献 編集

  • 前掲 『服部一三翁景伝』

関連項目 編集

外部リンク 編集

公職
先代
岩村高俊
  広島鉱山管理長
1898年
次代
江木千之
先代
伊沢修二
校長
  東京盲唖学校長事務取扱
1890年
次代
小西信八
校長心得
学職
先代
(新設)
  東京大学法学部長
1881年 - 1882年
次代
穂積陳重
先代
(新設)
日本地震学会会長
1880年 - 1882年
次代
山田顕義
その他の役職
先代
(新設)
共立女子職業学校
1886年 - 1891年
次代
手島精一