木下逸雲

1802-1868, 江戸時代後期の長崎の南画家

木下 逸雲(きのした いつうん、寛政12年8月1日1800年9月19日) – 慶応2年8月4日1866年9月12日))は、江戸時代後期の長崎南画家鉄翁祖門三浦梧門と共に長崎三大家とされる。

秋景山水図 1854年 絹本墨画

幼名弥四郎といい出演し、のちに通称を志賀之介とした。を相宰。逸雲は、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。

略伝 編集

長崎八幡町、木下勝茂の3男に生まれる。文化14年(1817年)、18歳で木下家代々の乙名(名主)の役を引き継ぐも、文政12年(1829年)にその役を兄の子に譲り、自身は元来関心のあった医師を生業とし、医門名を得生堂と称した。蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の普及に努めている。「霧島山に登るの記」(文政11年(1828年))の小文がある。

画は、はじめ唐絵目利石崎融思に学び、来舶清人江稼圃張秋穀からは南画の技法を修めた。その後も清人陳逸舟徐雨亭にその画風を学んだ。さらに雪舟狩野派大和絵円山四条派などの諸派や西洋画の画法を熱心に研究し、様々な技法を取り入れた。画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。逸雲は筆が早く、遅筆の鉄翁と対極をなした。田能村竹田頼山陽広瀬淡窓など文人と交わった。

逸雲は多芸多才で知られ、篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで、煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っている。長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、日中文化交流を促した。

慶応2年(1866年)4月、京阪江戸に漫遊し、同年8月横浜から長崎行きのイギリス船黒龍号に乗船するも、玄界灘で海難事故に遭い、帰らぬ人となった。享年68。門人に、河村雨谷津田南竹池島邨泉長井雲坪など。また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。

作品 編集

  • 「秋景山水図」1830年 長崎歴史文化博物館
  • 「秋景山水図」1854年
  • 「山水図」1861年
  • 「花鳥図(牡丹に猫)」1862年
  • 「水墨林巒重畳図」1863年
  • 「桃花源図」1864年
  • 「蘭水仙図」1864年
  • 「蓮塘図」1865年

出典 編集

関連項目 編集