本多 助実(ほんだ すけざね)は、信濃飯山藩の第7代藩主。一時期、家督を譲って隠居するが、続く2代の早世により、第10代(知藩事)として再任する。広孝系本多家11代。

 
本多助実
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政2年3月29日1819年4月23日
死没 明治10年(1877年3月1日
別名 助竹(別名)
諡号 竹遷、恒山
戒名 玄妙院殿従五位前飯山藩知事貫誉竹遷一道大居士
墓所 東京都港区六本木の教善寺
官位 従五位伊勢守、若狭守、豊後守、相模
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂慶喜明治天皇
信濃飯山藩
氏族 本多氏
父母 父:本多助受、母:丹羽高庸の五女・満
養父:本多助賢
正室:諏訪忠恕の五女・倭子
継室:米倉昌寿の娘
助成助寵実輝助順実方実秀実賢賢治、娘(松前修広正室のち青木某室)
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生涯 編集

文政2年(1819年)3月29日、第5代藩主・本多助受の三男として江戸で生まれる。誕生当時、父・助受は既に家督を養子の助賢に譲って隠居の身だった。文政13年(1830年)8月13日、助賢の養子となる。天保7年(1836年)12月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下・伊勢守に叙任する。安政5年(1858年)4月22日、助賢の隠居により家督を相続した。元治元年(1864年)9月、奏者番に就任した。慶応2年(1866年)11月、奏者番を辞任した。慶応3年(1867年)4月4日、隠居し、長男の助成に家督を譲った。隠居にともない、恒山と号した。

しかし、助成が慶応4年(1868年)に早世したため、八男の助寵に跡を継がせ、自らはその後見人となった。版籍奉還後の明治2年(1869年)9月2日、助寵は病気のために隠居し、助実が再任して飯山藩知事となった(実際には8月に死去していたのを秘していたという)。その後は藩政改革に努めたが、明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県のため藩知事を免職された。明治6年(1873年)4月5日、再び隠居し、十一男の助順に家督を譲った。明治10年(1877年)3月1日に死去した。享年59。

系譜 編集

父母

正室、継室

子女


当主
先代
本多助寵
飯山藩本多家
1869年 - 1873年
次代
本多助順
先代
本多助賢
飯山藩本多家
1858年 - 1867年
次代
本多助成