朱 以海(しゅ いかい)は、南明政権の監国は巨川、は恒山。魯粛王朱寿鏞の五男。

朱以海
南明監国
連環画「抗清英雄張蒼水」の朱以海の肖像画

称号 魯王
出生 万暦46年5月15日1618年7月6日
死去 永暦16年11月13日1662年12月23日
金門
配偶者 張氏(張有光の長女)
  張氏
  陳氏
子女 朱弘柙、朱弘枬、朱弘棅、朱弘槮、朱弘棟、朱弘桓
父親 朱寿鏞
母親 王氏
役職 監国
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生涯 編集

の初代皇帝洪武帝の十男の魯荒王朱檀の九世の孫として生まれる。崇禎17年(1644年)に李自成北京を陥落させて崇禎帝が自殺し、皇統に近い朱由崧が弘光帝として即位し南明政権を樹立すると魯王に封じられた。弘光元年(1645年)、南京で弘光帝が軍に敗北したことにより浙江紹興で監国を称した。当時、唐王であった同族の朱聿鍵が福州隆武帝として即位し、これと皇統の正閏を巡って対立していたため、隆武の元号を使用せずに監国魯元年と称している。

こうして南明は、朱以海と隆武帝とが協力して清軍に対抗できないまま、監国魯2年(1646年)に浙江・福建が相次いで陥落し、隆武帝政権は崩壊した。朱以海は舟山に逃れ、監国魯7年(1651年)にはさらに逃れて鄭成功の庇護下に入った(このとき監国の称号をやめた説もある[1])が、永暦16年(1662年)11月、喘息にかかって金門で没した[2]。享年44。

脚注 編集

  1. ^ 在位末年については1646年1651年1662年の諸説あり。
  2. ^ 『皇明監国魯王墓志銘』
先代
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南明監国
1645年 - 1651年?
次代
-