朱 国祚(しゅ こくそ、1558年 - 1624年)は、明代官僚政治家は兆隆、は養淳。本貫嘉興府秀水県

朱国祚

生涯 編集

1583年万暦11年)、進士に及第し、第一等の成績を修めて状元とされた。翰林院修撰に任じられた。1595年(万暦23年)、洗馬となった。皇長子朱常洛の下で侍班官となった。1596年(万暦24年)、右諭徳・兼侍講に進んだ[1]

先だって豊臣秀吉朝鮮侵攻(文禄の役)が起こり、朝鮮の救援のために明軍が派遣された。戦線は膠着し、日明の講和が模索されていた。北京の朝廷では石星沈惟敬の言を受けて、秀吉を日本国王に封じ、日明の勘合貿易を認める封貢論を主唱していた。国祚は面と向かって石星を詰問したが、石星が意見を変えることはなかった。

1598年(万暦26年)、国祚は礼部右侍郎に抜擢された。湖広税監の陳奉の横暴がはなはだしく、国祚は巡按御史の曹楷に手紙を書き送って、その罪状を暴かせた。万暦帝は怒り、陳奉を罷免した。1600年(万暦28年)、礼部尚書の余継登が死去すると、国祚は礼部尚書の事務を代行した。

ときに皇長子朱常洛が皇太子の位に立てられず、冠婚の時期を過ぎていたため、国祚はたびたび上疏して万暦帝を諫めた。万暦帝の寵愛する鄭貴妃の兄である鄭国泰は先に冠婚し、後で冊立するよう請願した。国祚は上疏してこれに反対し、「洪武帝永楽帝洪熙帝は即位当初に皇太子を立てました。宣徳帝正統帝が皇太子に立てられたとき2歳であり、成化帝弘治帝が皇太子に立てられたとき6歳であり、陛下もまた6歳でありました。年19にもなって冊立されない例は聞いたことがありません」と皇太子冊立を求めた。国祚は摂尚書となって2年近くで、国本の争に関連する上疏を数十回おこない、1601年(万暦29年)10月にようやく朱常洛が皇太子に立てられた。

陝西の狄道山が崩落し、その南に小さな山5つが新たにできたため、国祚はこれの改修を請願した。社稷の壇で枯樹から煙を生じていることを報告した。また人心を安んじ、人望を収め、民衆の事情に通じ、刑獄の濫用を控えるよう求める四事を上疏した。雲南巡撫の陳用賓が現地の物を進上すると、国祚はこれを弾劾した。ほどなく礼部左侍郎となり、吏部左侍郎に転じた。御史の湯兆京が国祚の酒ぐせの悪さを弾劾した。万暦帝はこれを不問にしたが、国祚は病を理由に官を退いて帰郷した。

1620年泰昌元年)8月、国祚は南京礼部尚書として起用された。まもなく礼部尚書・兼東閣大学士に任じられた。1621年天啓元年)6月、北京に入り、入朝した。9月、太子太保の位を加えられ、文淵閣大学士に進んだ。11月、少保・兼太子太保となった[2]1622年(天啓2年)2月、何宗彦とともに会試の主裁を命じられた[3]、7月、刑部尚書の王紀が魏忠賢のために官爵を剥奪されると、国祚は王紀を救おうと上疏した。

1623年(天啓3年)、国祚は少保・太子太保・戸部尚書に進み、武英殿大学士に転じた。十三度上疏して引退を願い出た。少傅・太子太傅の位を加えられて致仕し、駅馬車に乗って帰郷した。1624年(天啓4年)10月丙午、死去した[4]。享年は67。太傅の位を追贈された。は文恪といった。かれには6人の子がおり、長男の朱大競が後を継いだ。

著書に『孝宗大紀』1巻・『冊立儀注』1巻[5]・『介石斎集』20巻[6]があった。

子女 編集

その他の4人の子

脚注 編集

  1. ^ 国榷』巻77
  2. ^ 『国榷』巻84
  3. ^ 『国榷』巻85
  4. ^ 『国榷』巻86
  5. ^ 明史』芸文志二
  6. ^ 『明史』芸文志四

参考文献 編集

  • 『明史』巻240 列伝第128