杉浦 卯三(すぎうら うぞう、1891年明治24年)5月19日 - 1961年昭和36年)12月30日)とは、日本の体育教育者

経歴 編集

1891年5月19日、愛知県に生まれる[1][2]1915年東京高等師範学校文科体操専科を卒業[2]し、1919年広島高等師範学校教授となる[1]1922年には新しく設立された陸上競技のクラブ「アスレチッククラブ」の会長に就任する[3]など、広島県における陸上競技、バレーボールバスケットボールの普及に尽力した[1]1921年には極東オリンピックの予選会の開催にも協力した[4]中国駅伝の開催にも貢献している[1]1939年11月、広島市教育局学校体育課長に就任した[2]。1961年12月30日に70歳で死去した[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 20世紀日本人名事典 「杉浦 卯三」の解説 コトバンク(2023年8月2日閲覧)
  2. ^ a b c 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年 519ページ
  3. ^ 文部省 編 「人物を中心とした体育・スポ-ツ郷土史-7-広島県」『文部時報 = The monthly journal of Monbusho』ぎょうせい、1977年3月 87ページ
  4. ^ 中国新聞社社史編纂委員会 編『中国新聞六十五年史』中国新聞社、1956年 163ページ、164ページ