李 時勉(り じべん、1374年 - 1450年)は、明代儒学者官僚。名は懋、は時勉で、字をもって通称された。は古廉。本貫吉安府安福県

生涯 編集

李思誠と周氏のあいだの子として生まれた。少年のころ、冬の寒い最中に寝具で足を包んで桶の中に入り、書物を読誦してやまなかった。1404年永楽2年)、進士に及第し、翰林院庶吉士に選ばれた。文淵閣に進学し、『太祖実録』の編纂に参加した。1412年(永楽10年)、刑部主事に任じられ、さらに実録の重修に参加した。実録が完成すると、時勉は翰林院侍読に転じた。

時勉の性格は剛直で、天下のことを憂いて自分の任とみなしていた。1421年(永楽19年)、三殿で火災があり、永楽帝が直言を求めた。時勉は時務十五事を上書した。時勉は北京の都城営建に反対し、永楽帝の意に逆らった。それ以外の意見の多くは採用され、施行された。ほどなく讒言を受けて獄に下された。1423年(永楽21年)、釈放され、楊栄の推薦により復職した。

1425年洪熙元年)、時勉が洪熙帝に上書した。帝は激怒し、時勉を便殿に召し出して叱責したが、時勉は意見を変えなかった。帝は武士に金瓜で殴らせるよう命じ、時勉は肋骨を三度折られ、瀕死の状態で引き出された。翌日、時勉は交趾道御史に転出することになったが、さらに一事を言上し、三章を上書したことから、錦衣衛の獄に下された。錦衣衛の千戸が時勉に恩義があり、時勉の拘留を適切にし、ひそかに医者を呼び出して、海外産の竜血でかれを治療させたため、時勉は死なずに済んだ。洪熙帝は「時勉が朝廷でわたしを辱めた」と夏原吉にいい、夏原吉は帝を慰めた。その日の夕方に洪熙帝は死去した。

1426年宣徳元年)、時勉が先帝に罪を得たことをある人が言上すると、宣徳帝は時勉を連行してくるよう使者に命じた。さらに帝は時勉に会う必要はないと思い直し、西市で時勉を斬らせるよう王指揮に命じた。しかし王指揮が西の端の旁門を出ていったとき、前の使者が時勉を捕縛して東の端の旁門から入ってきて、すれ違った。帝が時勉に会うや罵って、「おまえは何を上疏して先帝を怒らせたのか」と訊ねた。時勉は叩頭して「臣は諒暗の中で妃嬪を近づけるのはよろしくなく、皇太子が側近を遠ざけるのはよろしくないと申し上げたのです」と答えた。帝はこれを聞くと悄然とした。時勉は六事を列挙するにとどまったので、帝は全て言うよう促した。時勉は「臣は恐ろしさのあまり全てを記憶してはおりません」と答えた。帝はその意を了解し、「言いにくいことなのだな。草稿はどこにある」と訊ねると、時勉は「焼いてしまいました」と答えた。帝は嘆息し、時勉を釈放させ、侍読の官に復帰させた。

1430年(宣徳5年)、『成祖実録』が完成すると、時勉は侍読学士に転じた。宣徳帝が史館に幸すると、金銭を学士たちに賜った。学士たちはみな俯いて受け取ったが、時勉はひとり直立していた。帝は残りの銭を時勉に賜った。1438年正統3年)、『宣宗実録』が完成すると、時勉は翰林院学士に進み、翰林院の事務を管掌し、経筵官を兼ねた。1441年(正統6年)、貝泰に代わって国子祭酒となった。1443年(正統8年)、太学が修築され、時勉は聖賢を祭って竣工を報告した。致仕を願い出たが、許可されなかった。

1444年(正統9年)、時勉は太学で釈奠の儀式をおこなった。英宗に『尚書』を進講した。続けて上疏して致仕を願い出たが、許可されなかった。1447年(正統12年)春、致仕を許された。朝臣や国子生ら3000人が都門の外に集まって送別した。

1449年(正統14年)、土木の変で英宗がオイラトに連行されると、時勉は孫の李驥を宮廷に派遣して上書し、将を選んで練兵し、君子に親しみ、小人を遠ざけ、忠節を表彰し、英宗の身柄を取り戻し、仇を討って恥を雪ぐよう請願した。1450年景泰元年)4月12日、死去した。享年は77。は文毅といった。1469年成化5年)、孫の李顒の請願により、時勉は諡を忠文と改められ、礼部侍郎の位を追贈された。著書に『古廉文集』11巻および『詩集』1巻[1]があった。

脚注 編集

  1. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻18

参考文献 編集

  • 明史』巻163 列伝第51
  • 古廉李先生改遷諡葬墓碑銘(『古廉文集』巻12所収)