李 蒙(り もう)は、中国後漢末期の武将。

李蒙
後漢
撫軍中郎将
出生 生年不詳
死去 興平2年(195年)2月
拼音 lǐ méng
主君 董卓李傕
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事績 編集

初めは董卓に仕えた。孫堅が董卓討伐の兵を挙げた時、董卓はこの迎撃に先立ち、徐栄と李蒙を四方に派遣し、虜掠[1]を行わせた。この時に徐栄が孫堅と遭遇し、これを撃ち破った[2]

初平3年(192年)、王允呂布らが董卓を暗殺し、政権を握る。李蒙は董卓旧臣の李傕樊稠王方らと合流し、長安の城を陥落させ、この勢力を駆逐した[2]

興平2年(195年)2月、撫軍中郎将の官にあったが、李傕によって殺害された[3]

三国志演義 編集

羅貫中の小説『三国志演義』では第9回で登場。李傕らが董卓の仇討ちのために攻め寄せてきた時、李蒙と王方は長安の内部からこれと内通し、王允・呂布らの勢力を駆逐する[4]

李傕らの政権が誕生すると校尉に任じられる。馬騰韓遂の軍が長安に攻め寄せると、賈詡は専守防衛を主張するが、李蒙と王方はこれに反対。15000の兵を与えられ、馬騰らを迎撃する。しかし王方は馬超との一騎打ちで敗北。李蒙は退却する馬超を追撃するが、槍を突き出したところを身をかわされ、生け捕りにされた後、斬首刑に処される[5]

脚注 編集

  1. ^ 人を生け捕りにして、財物や土地を掠奪 すること。虜掠(りょりゃく)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書 2024-04-16閲覧。
  2. ^ a b 范曄後漢書』董卓伝 s:zh:/後漢書/卷72
  3. ^ 袁宏『後漢紀』孝献皇帝紀 s:zh:後漢紀/卷28
  4. ^ s:zh:三國演義/第009回
  5. ^ s:zh:三國演義/第010回