杜 祺(と き、生没年不詳)は、中国三国時代蜀漢の武将・政治家。荊州南陽郡の出身。

生涯 編集

司塩校尉王連が良才を持つ者を選抜して属官に任用した時[1]、杜祺は呂乂劉幹と共に招聘され、典曹都尉に任命される。

建興9年(231年)、諸葛亮李厳の弾劾状を上奏した際は行参軍・武略中郎将として名を連ねた[2]

延熙7年(244年)、曹爽漢中に侵攻。その対応を協議した際、指揮官の王平の発言の中で「劉護軍(劉敏)と杜参軍(杜祺)を派遣して興勢山に籠らせ、私が後方の備えに当たるのが良い」とその名が挙がっている。それらの王平の作戦通りに、蜀漢は漢中防衛に成功した(興勢の役[3]

郡守・監軍・大将軍司馬を歴任し高い評判を得たが、倹約・質素で法を遵守することでは、呂乂には及ばなかったという。

出典 編集

脚注 編集

  1. ^ 『三国志』蜀書 王連伝。呂乂伝では王連の官を塩府校尉とする。
  2. ^ 『三国志』蜀書 李厳伝注
  3. ^ 『三国志』蜀書 王平伝