東群馬郡

日本の群馬県にあった郡
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東群馬郡(ひがしぐんまぐん)は群馬県にあった

群馬県東群馬郡の範囲

郡域 編集

1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。

  1. 山王町、西善町、中内町、東善町および山王町一・二丁目
  2. 住吉町、平和町、岩神町、昭和町、国領町、若宮町、日吉町、城東町および千代田町、大手町の一部[1]

歴史 編集

国郡里制から近世までおおむね継承されたである群馬郡のうち利根川左岸地域(前橋市街とその周辺)が、明治11年の郡区町村編制法施行に際して分割されてできた。郡制施行(群馬県では明治29年)では全国的に郡が大きく再編されているが、このとき東接する南勢多郡と併せて改めて勢多郡となり、東群馬郡という郡は廃止された。結果的には、東群馬郡の領域が群馬郡から勢多郡へ所属替えとなるような境界変更がなされたことになる。

東群馬郡は分割時の町村数にして元の群馬郡の約14%に過ぎない小部分であるうえ、当初から南勢多郡(町村数にして元の勢多郡の約92%を占める大部分)と併せて1つの郡役所の管轄とされている。この事実は、当時の行政担当者が、東群馬郡の領域は名目上は群馬郡であるが、運営上の都合としては勢多郡の一部として取り扱うべきと認識していたことを意味する。郡制施行に際しての再編は、この認識に名目を整合させたものと考えられる。以上の事実は、名目上の郡と地域区分の実態との間に明治以前から齟齬が生じていた可能性を示唆する。

実際、東群馬郡の領域は1539(天文8)年とも1543(天文12)年ともいわれる利根川の洪水に伴う流路変化で右岸から左岸に変わった地域である[2]。この洪水までは名実ともに群馬郡の一部であり、近世を通じて利根川で切り離されて同じ左岸側の勢多郡と一体化した、という経緯であった可能性が考えられる。

郡発足までの沿革 編集

  • 明治初年時点では全域が上野前橋藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点の、群馬郡のうち後の当郡域に存在した村は以下の通り。●は村内に寺社領が存在。(1町29村)
前橋[3]、●前代田村、宗甫分村、市ノ坪村、紅雲分村、六供村、朝倉村、公田村、下公田村、茂右衛門分村、横手村、●新堀村、下阿内村、今宿村、善光寺村、力丸村、房丸村、後閑村、下佐鳥村、●上佐鳥村、橳島村、阿内宿村、竜門村、矢島村、阿内村、徳丸村、宮地村、天川村、●寺家村、●天川原村
  • 明治4年(1871年
  • 明治6年(1873年6月15日 - 熊谷県の管轄となる。
  • 明治7年(1874年
    • 公田村・下公田村・茂右衛門分村が合併して三公田村となる。(1町27村)
    • 今宿村・善光寺村が合併して鶴光路村となる。(1町26村)
    • 阿内宿村・竜門村・矢島村・阿内村・寺家村が合併して亀里村となる。(1町22村)
  • 明治9年(1876年8月21日 - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を埼玉県に合併して群馬県(第2次)に改称。当郡域は群馬県の管轄となる。

郡発足以降の沿革 編集

  • 明治11年(1878年12月7日 - 郡区町村編制法の群馬県での施行により、群馬郡のうち利根川以東の1町22村の区域に行政区画としての東群馬郡が発足。「東群馬南勢多郡役所」が前橋曲輪町に設置され、南勢多郡とともに管轄。
 
21.前橋町 22.上川淵村 23.下川淵村(桃:前橋市 1 - 15は南勢多郡 -は北勢多郡)
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。全域が現・前橋市。(1町2村)
    • 前橋町 ← 前橋曲輪町、前橋北曲輪町、前橋南曲輪町、前橋神明町、前橋柳町、前橋石川町、前橋堀川町、前橋田中町、前橋横山町、前橋本町、前橋竪町、前橋桑町、前橋萱町、前橋榎町、前橋田町、前橋立川町、前橋紺屋町、前橋連雀町、前橋相生町、前橋中川町、前橋片貝町、前橋新町、前橋芳町、前橋百軒町、前橋大塚町、天川村、紅雲分村[一部]、前代田村[一部]、宗甫分村[一部]、天川原村[一部]、南勢多郡前橋小柳町、前橋細ヶ沢町、前橋諏訪町、前橋向町、前橋神明町、才川村、清王寺村、岩神村、一毛村、国領村、萩村
    • 上川淵村 ← 六供村、市ノ坪村、橳島村、朝倉村、後閑村、上佐鳥村、下佐鳥村、宮地村および前代田村[大部分]、宗甫分村[大部分]、天川原村[大部分]、紅雲分村[大部分]
    • 下川淵村 ← 亀里村、横手村、三公田村、鶴光路村、新堀村、力丸村、房丸村、徳丸村、下阿内村
  • 明治25年(1892年)4月1日 - 前橋町が市制施行して前橋市となり、郡より離脱。(2村)
  • 明治29年(1896年)4月1日 - 郡制の施行のため、「東群馬南勢多郡役所」の管轄区域をもって勢多郡(第2次)が発足。同日東群馬郡廃止。

前橋の所属郡の問題 編集

「県庁所在地が勢多郡前橋であるにもかかわらず群馬県となったのは、当初は群馬郡高崎に県庁を設置する予定だったからである」と記述する資料が見られる。第一次群馬県、第二次群馬県とも、「群馬県」を名乗ったとき(すなわち当初設置時)には高崎に県庁があり、前橋への移転後も高崎へ戻す予定があったことは事実であるが、この時期には前橋市街の主要部分は群馬郡または東群馬郡に所属していたため、上記の説は極めて不正確である。

#歴史の項でも述べたように、東群馬郡の設立や再編に関する諸事実は、当時の行政担当者が東群馬郡の領域を実質的には勢多郡の一部と認識していたことを意味する。前橋の県庁は、このような領域内にあるから、県庁位置決定に至る地域対立の経緯の中で、その所属郡がどちらと意識されていたかは自明でない。

行政 編集

東群馬・南勢多郡長
氏名 就任年月日 退任年月日 備考
1 山形和平 明治11年[4](1878年)12月7日 明治14年(1881年)12月[5]
2 三木泰象 明治15年(1882年)2月[6] 明治17年(1884年)3月[7]
3 大木親 明治17年(1884年)4月[8] 明治17年(1884年)12月[9]
4 八木始 明治19年(1886年)8月25日[10] 明治23年12月6日[11]
5 三木泰象 明治23年12月6日[11] 明治27年(1894年)1月16日[12] 2代の再任
依願免官
6 八木始 明治27年(1894年)1月16日[13] 明治29年(1896年)3月31日 4代の再任
南勢多郡との合併により東群馬郡廃止

脚注 編集

  1. ^ 前橋市街における住居表示の実施により境界線は不詳。
  2. ^ 澤口宏 (2014年11月). “前橋台地の利根川” (PDF). 群馬県調査・研究報告. 良好な自然環境を有する地域 学術調査報告書 40号. 群馬県自然環境課. 2019年4月6日閲覧。
  3. ^ 前橋城下各町の総称。「旧高旧領取調帳」には記載なし。本項では便宜的に1町として数える。
  4. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  5. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  7. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  8. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  9. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  10. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  11. ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月27日閲覧。
  12. ^ JAPAN, 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF. “群馬県東群馬南勢多郡長三木泰象依願免官ノ件”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2023年6月27日閲覧。
  13. ^ JAPAN, 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF. “群馬県邑楽郡長八木始群県東群馬南勢多郡長高等官七等ニ塩谷良翰群馬県邑楽郡長高等官七等ニ任叙ノ件”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2023年6月27日閲覧。

参考文献 編集

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 10 群馬県、角川書店、1988年6月1日。ISBN 4040011007 
  • 旧高旧領取調帳データベース

関連項目 編集

先代
群馬郡(第1次)
行政区の変遷
1878年 - 1896年
次代
勢多郡(第2次)