松平頼位

江戸時代後期の大名。宍戸藩第8代・第10代藩主

松平 頼位(まつだいら よりたか)は、江戸時代後期の大名常陸国宍戸藩8代・10代藩主。官位従五位下主税頭三島由紀夫の高祖父にあたる。

 
松平 頼位
松平頼位
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化7年2月13日1810年3月17日
死没 明治19年(1886年12月17日
改名 豊四郎(幼名)→頼位
別名 将監(通称)、豊山(号)
墓所 茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山
官位 従五位下主税頭従四位
幕府 江戸幕府
主君 (水戸)徳川斉脩斉昭→(将軍)徳川家慶慶喜明治天皇
常陸水戸藩家老→常陸宍戸藩
氏族 水戸徳川家支流松平家(宍戸家→長倉家→宍戸家)
父母 父:松平頼救、母:田口氏
養父:松平頼善松平頼筠
兄弟 頼敬太田資原、頼位、順、政、直、克、金、千勢、左衛、松
正室:松平頼善養女・
側室:佐々木氏
頼徳、雪、頼安、鋌、高、頼平、艶、鋭
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生涯 編集

5代藩主・松平頼救の四男として生まれる。母は田口氏。当時すでに頼救は隠居しており、跡を継いだ嫡男の頼敬(頼位の異母兄・長兄)が早世したため、水戸本家から頼筠(頼位の従甥にあたる)が養子入りしてその跡を継いでいた。

文政10年(1827年)、常陸水戸藩の一門で家老格松平頼善の養女・絲(実父は頼善の祖父保福)を正室とし、養子となって襲禄、3000石。主税頭となる。

天保2年(1831年)4月3日、長男・頼徳を儲ける。天保3年(1832年)2月26日、長女・雪を儲ける。雪は嘉永2年(1849年)8月26日、17歳で死亡した。

天保9年(1838年)、水戸藩主徳川斉昭の命により、長倉城跡を修復し、長倉陣屋を建てる(所領を移ったのは次の頼譲の代)。

天保10年(1839年)5月16日、頼筠が嗣子無くして重病にかかり危篤となったため、急遽その養嗣子となって生家を継いだ。同年12月18日、従五位下を賜わる。父・頼救、義父・保福と共に徳川斉脩斉昭兄弟の大叔父にあたり一門でもあったので、藩主就任前から斉昭の本家水戸藩相続に尽力し、斉昭に従って藩政改革を行なう。

弘化3年(1846年)9月21日、家督を長男の頼徳に譲って隠居するが、その後も水戸本家を継いだ徳川慶篤の補佐を務めた。

側室に佐々木氏の娘を迎え、弘化4年(1847年)8月19日に次女の珽を、安政3年(1856年)1月10日に次男の頼安を、安政4年(1857年)8月13日に三女の高を、安政5年(1858年)8月15日に三男の頼平を、文久元年(1861年)12月11日に四女の艶を、文久2年(1862年)9月30日に鋭を儲ける。

元治元年(1864年)、水戸藩で天狗党の乱が起こると、長男の頼徳は鎮圧に失敗したことを幕府より咎められ、10月5日に切腹した。享年35。頼位自身も連座して拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。

慶応4年(1868年)2月、新政府より宍戸藩の復旧を命ぜられ、頼位が再相続する。明治2年(1869年)、頼位の版籍奉還願いが受理され、5月25日に知藩事を任命される。

明治3年(1870年)、宍戸陣屋の拡張を願い出るが、明治4年(1871年)の廃藩置県により免官される。その後、明治10年(1877年)に常磐神社の神官となった。文化人として優れており、斉昭の事蹟をまとめた『告志篇』や『明倫歌集』10巻などが出版された[要出典][誰によって?]

徳川斉昭らの編纂した『明倫歌集』に跋文を書き[1][2]、これを宍戸藩の藩校脩徳館の蔵板として出版[3]、江戸の書肆より発行した[2][4]

1880年(明治13年)7月、家督を次男の頼安に譲る。1883年(明治16年)9月6日、従四位を賜わる。1886年(明治19年)12月17日、77歳で死去。

系譜 編集


脚注 編集

  1. ^ 「明倫歌集跋」記名、NDLJP:2563017/48
  2. ^ a b 明倫歌集”. 新日本古典籍総合データベース. 国文学研究資料館. 2020年10月18日閲覧。
  3. ^ 青山英正「幕末の歌集と教化 ―『明倫歌集』の編纂過程について―(要旨)」、日本近世文学会平成15年度秋季大会、2007年11月23日、研究発表会。
  4. ^ 『明倫歌集』宍戸脩徳館蔵版本奥付、NDLJP:2563017/50
  5. ^ 彼女の娘夏の息子が三島由紀夫の父平岡梓

参考文献 編集

  • 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)

外部リンク 編集

当主
先代
松平頼徳
宍戸松平家
10代
1868年 - 1880年
次代
松平頼安
先代
松平頼筠
宍戸松平家
8代
1839年 - 1846年
次代
松平頼徳
先代
松平頼善
長倉松平家
9代
1827年 - 1839年
次代
松平頼譲