松本英彦

日本のジャズ・サックス奏者、作曲家、バンドマスター (1926-2000)

松本 英彦(まつもと ひでひこ、1926年10月12日 - 2000年2月29日)は、日本テナー・サックス奏者。ニックネームは「スリーピー松本」。

松本 英彦
別名 スリーピー松本
生誕 (1926-10-12) 1926年10月12日
出身地 日本の旗 日本 岡山県
死没 (2000-02-29) 2000年2月29日(73歳没)
ジャンル ジャズ
職業 テナー・サックス奏者
作曲家
バンドマスター
担当楽器 テナー・サックス
フルート
活動期間 1944年 - 1997年
レーベル ユニオンレコード
ビクター
TBM
キング
NEXT WAVE
BMG
東芝EMI
トライエム
メンバー ビッグ・フォア
著名使用楽器
H.SELMER markⅦ GP

戦後日本のジャズ界を代表するプレイヤーとして国際的に活躍し、モントルー・ジャズ・フェスティバルには日本人として初めて出場した。甥に松本晃彦がいる。

来歴 編集

1926年10月12日、岡山県で生まれる。幼少期に広島県芦品郡府中町(現・府中市)に転居。 1938年、広島県立府中中学校(現・広島県立府中高等学校)に入学し、ブラスバンド部に所属する。1943年、無線電信講習所(現・電気通信大学)に入学。

1944年、よこすかEMクラブ近くの横浜サクラポート(オルフェアンズと交替)で音楽家として活動を開始する。その後、学校に通いながら米軍キャンプで演奏のアルバイトを続ける。このとき米軍軍人から"スリーピー"の愛称をもらう。

1949年、横浜のジャズ・グループ、CBエイト[1]に加入しジャズ人生のスタートを切る。1951年渡辺晋(のちに渡辺プロダクションを創設)率いる「渡辺晋とシックス・ジョーズ」に加入。

1953年ジョージ川口中村八大小野満と「ビッグ・フォア」を結成、第一次ジャズブームを巻き起こす。1959年白木秀雄のクインテットに参加。

1963年、日本人として初めてモントルー・ジャズ・フェスティバルに招待出演し、活躍の場を世界へ広げる。1964年 2月、チャーリー・マリアーノ『Jazz Inter - Session』(キングレコード)の録音に参加。7月14日、東京で開催された世界ジャズ・フェスティバルに参加。1968年ハンプトン・ホーズ『Jam Session』(コロムビア)の録音に参加。

1977年文化庁芸術祭大賞受賞。1978年南里文雄賞受賞。同年、インナー・ギャラクシー・オーケストラに参加。1982年、日ソ文化交流としてソ連に招待公演。1987年、音楽生活40周年記念リサイタルを開く。1988年芸術選奨文部大臣賞受賞。1991年紫綬褒章を受章。

1997年11月、肺がんの手術のため入院していた病院の医療過誤により長期療養を余儀なくされる。 1998年勲四等旭日小綬章を受章[2]

2000年2月29日死去。73歳没。墓所は大徳寺総見院にある。

ディスコグラフィ 編集

リーダー作品 編集

エピソード 編集

  • 1992年に松本は井上彩名らと、バンド「Family Business」を結成。「松本英彦 & Family Business」名義でシングル『二人は大人』『恋のパピヨン』を発売した。
  • 松本は眠るように吹く事から「スリーピー」という愛称でも呼ばれた[5]

脚注 編集

  1. ^ クラム・ベイク・エイト、1924年に結成され、土地の名物「焼き蛤」から命名された8人編成のグループで、馬渡誠一(as)、海老原啓一郎(as)、北里典彦(tp)、清水閏(ds)らが在籍した。なお、松本の加入により同グループは「CBナイン」と名乗る。
  2. ^ 「秋の叙勲 晴れの受章者 勲四等-勲七等(都内分)」『読売新聞』1996年11月3日朝刊
  3. ^ 当時のメンバーはハンク・ジョーンズエディ・ゴメスアル・フォスター
  4. ^ 出典:永六輔著『上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史』飛鳥新社、2006年出版。ただし、『黒い花びら』には複数のバージョンがあり、永がどのバージョンを指しているのか定かではない。
  5. ^ asahi.com(朝日新聞社):没後10年 テナーサックス奏者・松本英彦しのびコンサート - 音楽 - 映画・音楽・芸能”. 朝日新聞デジタル (2010年3月11日). 2020年10月12日閲覧。

外部リンク 編集