板倉勝弼

日本の大名、子爵

板倉 勝弼(いたくら かつすけ)は、備中松山藩(高梁藩)第8代(最後)の藩主。子爵。板倉家宗家14代。

 
板倉勝弼
板倉勝弼
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 弘化3年5月6日1846年5月30日
死没 明治29年(1896年10月21日
戒名 中興院漆山源昌大居士
墓所 東京都文京区本駒込吉祥寺
官位 従五位正四位
主君 明治天皇
備中松山藩
氏族 板倉氏
父母 板倉勝喬、石田氏
板倉勝静
太田資功、森嶋氏
勝功勝貞勝宣、益子ら
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経歴 編集

板倉勝喬(4代藩主板倉勝政の十一男)の四男として誕生した。

初め、江戸で僧侶になる予定であったが、先代藩主の勝静が明治元年(1868年)の戊辰戦争で、旧幕府軍に最後まで忠義により与して箱館まで転戦したため、松山藩は新政府の追討を受けることとなった。そこで、藩の執政山田方谷は、勝静とともに函館転戦した嫡男の勝全ではなく、勝弼を連れ出して新藩主に迎えることとし、川田剛を使者として迎えに行かせた。

当時の松山藩は朝敵の立場であり、藩関係者への新政府の監視の目は厳しかった。川田は勝弼に丁稚の格好をさせて備中玉島行きの船が出る横浜へと向かったが、途中で新政府軍の兵士に発見された。その時、川田は『勧進帳』の話を思い出してとっさに勝弼を殴り飛ばしたところ、兵士たちも驚いて通行を許可したため、備中松山に無事到着したと言われている。

明治2年(1869年)2月、新政府から処罰として所領を5万石から2万石に減らされた上で、勝弼の家督相続が認められた。同年10月に松山を高梁と改名し、11月に知藩事となる。明治4年(1871年)2月、新政府の命令で東京へ赴き、そのまま同年7月の廃藩置県で免官となった。

勝弼の板倉家相続の際、後日のお家騒動を防ぐため、重臣たちが勝弼に対して「板倉勝全(勝静の嫡男で父に同行していた)が松山に戻った時には必ず家督を勝全に譲る」という起請文を書かせていた。後日、新政府から赦免された勝静がこれを聞くと、「勝全は朝廷から咎めを受けた身であり、板倉家を継がせることはできない」と言って、勝弼から起請文を取り上げると、居並ぶ重臣たちの前でこれを破り捨て、改めて勝弼への忠誠を誓わせたと言われている。

1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。明治29年(1896年)9月、上野東照宮の社司となったが、同年10月21日に51歳で死去した。法号は中興院漆山源昌大居士。墓所は東京都文京区本駒込吉祥寺

栄典 編集

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ 『官報』第3997号、1896年10月23日。
  3. ^ 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929、p64
  4. ^ 板倉勝彦『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  5. ^ a b c d e f 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929、p61
  6. ^ 若杉鳥子と縁の深い人々若杉鳥子
  7. ^ a b 板倉勝豪『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
松山板倉家初代
1884年 - 1896年
次代
板倉勝貞
当主
先代
板倉勝静
板倉宗家
14代
1869年 - 1896年
次代
板倉勝貞