板垣絹子

明治・大正期の女子教育家

板垣 絹子(いたがき きぬこ、安政6年5月8日1859年6月8日) - 昭和13年(1938年4月13日)は、明治大正期の女子教育家。学校法人順心広尾学園の創始者。板垣退助の4番目の正妻。明治期長崎の教育家・荒木周道の妹。

来歴 編集

 
板垣絹子の墓(東京品川の退助墓隣)
 
板垣孫三郎の墓(退助三男)
高知板垣山墓所

※日付は明治5年まで旧暦

  • 安政6年5月8日、荒木伊三次の七女として、肥前国彼杵郡下長崎村小島郷(現・長崎県長崎市)に生まれる。幼くして奉公に出て芸道に励み、後に板垣退助に気に入られ権妻として板垣家に入籍する。
  • 明治18年(1885年
    • 6月28日、板垣の3番目の正妻 鈴(すず)が46歳で死去。
    • 10月6日、板垣の三男・孫三郎を産む。
  • 明治19年(1886年)7月1日、孫三郎が満10ヶ月で夭逝した[注釈 1]
  • 明治22年(1889年
    • 3月6日、福岡孝弟の養女となる形を経て、板垣と婚姻、正妻となる。
    • 4月4日、四男・正實(まさみ)を産む。
  • 明治26年(1893年)4月12日、四女・千代子を産む。
  • 明治28年(1895年)1月1日、五女・良子を産む。
  • 明治30年(1897年)11月14日、五男・六一を産む。
  • 明治35年(1902年)6月16日、清浦錬子らと共に監獄内で出産した女囚の子供たちの保育・教育機関「女子同情会」「東京女囚携帯乳児保育会」を創設し、100名近い乳児をこの保育会で育てた[1]。その他「東京割烹講習会」の会長や「愛国婦人会」の各評議員を勤める。
  • 大正4年(1915年)3月5日、五女・良子が哲学者・小山鞆絵と結婚する。
  • 大正6年(1917年)、絹子が中心となって「大日本婦人慈善会」を創設し会長となる。
  • 大正7年(1918年
  • 大正8年(1919年)7月16日、夫・退助が83歳で薨去。
  • 大正14年(1925年)5月15日、四男・正實が37歳で未婚のまま死亡。
  • 昭和13年(1938年)4月13日、薨去。享年80。法名は絹子の慈善事業の徳を偲ぶ意味で、慈徳院殿温良全貞大姉と名づけられた。墓は東京品川東海寺内の高源院(品川神社裏、東京都品川区北品川3-7-15)にあり、退助の墓等と共に昭和53年(1978年)11月22日に品川区史跡に指定されている。

逸話 編集

絹子が女子教育や慈善事業に専念することになったきっかけについて「会津戦争の時に、夫は官軍に加はって転戦を致しましたが、その会津城が兵火の為に愈々陥落すると言う刹那、福島の民衆はこれを観ても全く手を出さず、袖手傍観の態であった、福島は松平氏の城下で、全く官尊民卑の俗が甚しかったからであると申しておりました。此時に初めて自由平等の理を悟り民権主義を唱へられたのです」と懐述している。絹子は、この夫の話を聞き社会の改良運動に取り組んだという。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 墓は高知県高知市薊野の板垣家代々墓所にあり「板垣孫三郎、板垣退助三男、明治十九年七月一日死 享年満十ヶ月」と刻まれている。

出典 編集

  1. ^ 社会福祉法人聖音会ホームページより。

参考文献 編集

  • 『板垣退助君伝記 全4巻』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房2009年
  • 『社会福祉人名資料事典(第3巻)』日本図書センター、2003年
  • 『近代社会事業功労者伝』中部社会事業短期大学編、1955年(「板垣絹子」項より)

関連項目 編集