林 長懋(りん ちょうぼう、生没年不詳)は、明代官僚は景時。本貫興化府莆田県

生涯 編集

泉州府訓導の林献中の子として生まれた。1405年永楽3年)、郷試に及第した。南昌県教諭に任じられ、青州府教授に進んだ。1420年(永楽18年)、翰林院編修に抜擢された。礼科給事中戴綸とともに皇太孫朱瞻基に近侍して書を講説した。永楽帝は朱瞻基に命じて武事を習わせた。朱瞻基もまた武事をもともと好んでいたことから、ときおり騎射に出かけた。林長懋と戴綸は朱瞻基の年齢が成長期にあたり、学問をおろそかにして遊猟にかまけるのは宜しくないと、折に触れて諫言した。1424年(永楽22年)、長懋は左春坊中允に進んだ。頑固で厳しい性格で、遠慮のない直言を重ね、戴綸とは仲が良かった。

宣徳帝(朱瞻基)が即位すると、長懋は鬱林州知州に左遷された。恨み言があったとして、逮捕されて北京に連行され、錦衣衛の獄に下された。長懋は獄中にあること10年、英宗が即位すると、赦免された。鬱林州知州の官に復帰し、善政で知られた。60歳で死去すると、鬱林州の人が廟を立ててかれを祀った。

参考文献 編集