柳斎重春

1803-1853, 江戸時代後期の大坂の浮世絵師。当初は国重とも称した。

柳斎 重春(りゅうさい しげはる、享和2年〈1802年〉 - 嘉永5年5月29日1852年7月16日[1])とは、江戸時代後期の大坂浮世絵師

柳斎重春
ヒト
性別男性 編集
国籍日本 編集
母語表記柳斎重春 編集
しげはる 編集
読み仮名りゅうさい しげはる 編集
生年月日18031802 編集
出生地長崎県 編集
死亡年月日5 7 185316 7 18521853 編集
職業画家浮世絵師 編集
弟子柳狂亭重直重房 編集
活動地大阪 編集
活動開始1821 編集
コレクション所蔵者ロイヤルオンタリオ博物館 編集
作者の著作権状態著作権保護期間満了 編集

来歴 編集

肥前国長崎鍛治町の商家山口善右衛門(屋号大島屋)の次男として生まれる。俗称は山口甚次郎。玉柳亭、烽山、日華とも号す。重春とは親交のあった花笠外史の著『役者風俗三国志』の序文には重春について、「…画を好み寝食を忘れ、師なくて学び真を観て臨(うつ)し、遂に一家をなすに到る」とあり、要するに定まった絵の師匠はいなかったと記している。丸丈斎国広または柳川重信の門人だったともいわれるが定かではない[2]

幼い頃に父善右衛門とともに長崎から大坂に移り住む。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)の間には大坂の三ツ寺町に住んだ。作画期は文政4年(1821年)からのものが確認されており、作品は役者絵や版本挿絵、肉筆画などがあり、一説には芝居の絵看板も描いたという。当初は長崎国重、梅丸斎国重、また瀧川国重とも称している。文政9年(1826年)7月に柳斎重春と改名、天保元年(1830年)からは玉柳亭の号を使う。重春の役者絵は、国重を称した頃は江戸の役者絵に近い垢抜けした画風を見せるが、柳斎を称しはじめた頃から上方絵特有の濃密な画風に傾倒し、固定化している。享年51。墓所は長崎県長崎市の永昌寺、戒名は烽山柳春居士。かつて大阪市天王寺区の伝光寺にも墓があったが、伝光寺は戦後に他の寺と合併し無くなっており、重春の墓も現存しない。門人に柳狂亭重直重房がおり、重春の長女よねは米春と号して画業を継いでいる。

作品 編集

版本挿絵 編集

  • 月宵鄙物語』後編 読本 ※桃花園三千丸作、文政11年
  • 都鄙物語』 読本 ※手塚兎月作、文政12年
  • 『傾城狭妻櫛』 絵入根本 ※文政13年
  • 『忠孝二見浦』 読本 ※南里亭其楽作、文政14年
  • 役者風俗三国志』 芝居絵本 ※花笠外史編、天保2年
  • 『契情稚児淵』 絵入根本 ※天保3年
  • 『絵本和田軍記』 読本 ※速水春暁斎作 天保5年
  • 『三傑奇譚』 読本 ※東籬亭作、天保12年
  • 扶桑皇統記図会』 読本 ※好華堂主人作、嘉永2 ‐ 3年

錦絵 編集

肉筆画 編集

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
竜虎紋様着衣太夫の図 絹本着色 摘水軒記念文化振興財団
素尊斬蟒図 板地著色 絵馬1面 119.6x149.0 金刀比羅宮 1844年(天保15年) 款記「烽山重春」/「烽山」朱文方印 木枠に「奉納」「天保十五甲辰三月吉日」「淡州吉田傳次郎座中」[3]

脚注 編集

  1. ^ 生年は享和3年、没年は嘉永6年5月29日ともいわれているが(『浮世絵師伝』等)、長崎県長崎市の永昌寺にある重春の墓には「嘉永五壬子五月二十九日」、「行年五十一」とあることが指摘されている。松平進「柳斎重春 ―上方の役者絵(六)―」58頁参照。
  2. ^ 国広とは「肩書きに明記する形で」師弟関係があったとはいえず、重信も文政5年以降、九年の間大坂にいたが、重春の画風が江戸風から上方風に変化した時期や上記『役者風俗三国志』の記述などから、重信とも師弟の関係にあったとは認め難いとの意見が出されている。「柳斎重春 ―上方の役者絵(六)―」89 - 90頁。
  3. ^ 伊藤大輔責任編集 『平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝─絵画』 金刀比羅宮、2004年9月1日、pp.206、370。

参考文献 編集

  • 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[1]
  • 松平進 「柳斎重春 ―上方の役者絵(六)―」 『梅花女子大学文学部紀要(国語・国文学篇)』13 梅花女子大学文学部、1977年
  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※48頁「重春」の項

関連項目 編集