桃令院(とうれいいん、文化14年3月16日1817年5月1日) - 明治24年(1891年1月4日)は、新庄藩主・戸沢正令の正室。子に長男・戸沢正実、二男・本多忠貫、三男・中条信汎(異説あり)、長女・えん、二女・於鑑(岩城隆永室)がいる。桃令院とは落飾後の院号で、落飾前は貢姫と呼ばれた。兄に薩摩藩主・島津斉宣中津藩主・奥平昌高福岡藩主・黒田長溥(同母兄)、八戸藩主・南部信順など、姉に将軍徳川家斉御台所広大院桑名藩主・松平定和室の孝姫などがいる。

生涯 編集

文化14年(1817年)3月16日に薩摩藩主・島津重豪の娘として江戸高輪の薩摩島津藩邸にて誕生した。母は側室・牧野千佐。このとき、父・重豪は76歳という高齢であった。

貢姫は13歳の天保3年(1832年)に戸沢正胤の長男・正令と婚姻し、江戸の新庄戸沢藩邸に入る。輿入れの際、花嫁道具として持ち込んだ「雛道具」は現在も新庄ふるさと館に保管されており、毎年2月中旬から4月まで公開されている。

正令との夫婦関係は良好で、長男・正実、二男・本多忠貫、長女・えん、三男・中条信汎(異説あり)、次女・於鑑を儲けた。

天保11年(1840年)に正胤が隠居し、正令が家督を相続し、貢姫は藩主正室となる。しかし、天保14年(1843年)に参勤交代で新庄から江戸に向う途中、正令は病にかかり、江戸藩邸に到着直後に死去した。貢姫は落飾し、夫のから一字をもらい「桃令院」と号した。藩主には子の正実が就く。しかし藩政は新庄の隠居・正胤が後見という形で実権を握った。

文久3年(1863年)、江戸の政情不安を忌避して、娘・えんと孫(後の戸沢正定)を連れて新庄の常葉丁別邸に移る。

幕末になると、隣藩の庄内藩奥羽越列藩同盟に参加するよう、正実に強く迫った。戊辰戦争では初め、新庄藩は新政府軍側についたが、庄内藩に敗北し、圧力に屈する形で奥羽越列藩同盟に参加することになった。その後、一時は庄内藩と協力して新政府軍を圧倒したが、まもなく新政府軍の反撃に遭って、新庄藩は勝手に戦線を離脱し、旧幕府軍敗走の一因を作った。これに激怒した庄内藩は、新庄藩を敵と見なして新庄城を攻め落とした。このとき、新庄の城下町は灰燼と帰し、桃令院と正実らは命からがら秋田藩領へ落ち延びた。以後、新庄藩は新政府軍が反撃するまでの70日間、庄内藩によって占領された。

明治2年(1869年6月2日、正実は戦線離脱による新政府軍優位を作り出した功績を賞されて、1万5000石を加増された。

明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県により、家族と共に東京に移り住む。

明治24年(1891年)1月4日に死去した。