桃澤 夢宅(ももざわ むたく、元文3年(1738年) - 文化7年(1810年)7月10日)は江戸時代中期の歌人。諱は匡衛(まさもり)、通称は与一右衛門。字は茂兵衛[1]。別号に敬山、振思亭。子孫に桃澤如水がいる。

信濃国伊那郡本郷村(長野県上伊那郡飯島町)の庄屋(名主)桃澤喜左衛門の長男として生まれる。垂雲軒澄月に二条派歌学を学び、天明4年(1784年)に「三義点の教授」を伝授される。寛政8年(1796年)に家督を譲り上洛し、桂園派香川景樹をはじめとする多くの歌人と交わり、同10年(1798年)に澄月が没した後は垂雲軒を承継し、公家らの支持を得て後進を指導したが、享和2年(1802年)には小野斧木に譲り、帰郷した。その後は自宅の振思亭で歌作に専念し、「夢宅時代」と呼ばれる、信濃での歌道全盛期を築き、大宗匠として信濃国内は元より、江戸にまで及ぶ多くの門弟を抱えた。

歌集に「蓬牕愚藻(ほうそうぐそう)集」(正続2巻)、稿本に「文化五戊辰年歳日記」「文化七庚午年歳日記」などがある。

参考文献 編集

  • 兼清正徳 『桃澤夢宅伝の研究』
  • 『上伊那文化大事典』

脚注 編集

  1. ^ 桃沢夢宅-1115475”. コトバンク. 2021年1月5日閲覧。