桜井 敏雄(さくらい としお、 本名:窪田 邦夫(くぼた くにお)、1909年2月15日[1][2] - 1996年2月26日)は、「最後の演歌師」と称された日本歌手で、自ら奏でるヴァイオリンを伴奏楽器として歌う「ヴァイオリン演歌」のスタイルで演奏した[3][4][5]

来歴・人物 編集

東京市下谷区(現在の台東区の一部)三ノ輪に生まれた[4][6]。生家は骨董商であったが、高等小学校を卒業した後、1923年関東大震災をきっかけに生家を出て石田一松に弟子入りし[1]、2年ないし3年後に演歌師として独立した[3][4][6]。独立後東京を中心に縁日などでヴァイオリン演歌の流しを始める[1]

その後、桜井は、演歌師として活動の中で無名だった上原げんと岡晴夫の世話をし、後には彼らを「育てた」と評されるようになった[7]

第二次世界大戦中は兵役に就いていたが、復員後に妻や両親を相次いで亡くし、戦後、男手一つで4人の子どもを育てた[3]

1983年には、大衆芸能部門で第4回松尾芸能賞優秀賞を受賞した[7]

1987年次郎物語』(1987年7月4日公開) に出演。

1989年には、芸術祭賞演芸部門の受賞が決まり[4][8]1990年1月22日に授賞式が行なわれた[6]

1992年には、なぎら健壱の企画により、桜井の演奏となぎらとの対話を収めたCD『ザ・ヴァイオリン演歌』がリリースされた[9]

桜井は、晩年まで、各地の大道芸関係のイベントに出演するなどしていたが[2][9]1996年2月26日肺炎のために死去し、遺品のヴァイオリンは形見分けとしてなぎらに譲られた[3][10]

出典・脚注 編集

  1. ^ a b c 日本芸能人名事典 三省堂 1995年
  2. ^ a b 武中英夫 (1994年10月30日). “[生涯現役]バイオリン演歌師・桜井敏雄さん85 演歌一筋ハハのんきだね”. 読売新聞・東京朝刊: p. 21  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  3. ^ a b c d “[遺された言葉]桜井敏雄さん あたしじゃなくちゃ歌えない歌を、歌い続けたい”. 読売新聞・夕刊: p. 9. (1996年4月6日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  4. ^ a b c d “世相を語るバイオリン演歌 芸術祭賞受賞の桜井敏雄さん”. 朝日新聞・東京朝刊・東京. (1989年12月2日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  5. ^ “桜井敏雄氏死去”. 朝日新聞・朝刊: p. 31. (1996年2月27日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ a b c “[編集手帳]演歌一筋60年余、桜井敏雄氏に芸術祭賞”. 読売新聞・東京朝刊: p. 1. (1990年1月21日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  7. ^ a b 松尾芸能賞 11”. 松尾芸能振興財団. 2014年1月25日閲覧。
  8. ^ “1989年度芸術祭賞受賞者 21人・5団体”. 朝日新聞・朝刊: p. 30. (1989年12月2日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  9. ^ a b “最後のバイオリン演歌師・桜井敏雄が初のCD発売 「オッペケペー」など15曲”. 読売新聞・夕刊: p. 12. (1992年10月19日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  10. ^ なぎら健壱 (2000年1月22日). “伝承されない芸”. 読売新聞・東京夕刊: p. 6  - ヨミダス歴史館にて閲覧