桜井 魁園(さくらい かいえん)は、江戸時代後期から明治時代にかけての徳山藩士、国学者武雄。徳山藩士・桜井雄俊の長男。家格は組外馬廻、禄高は50石。徳山藩の藩校である興譲館の第4代教授。

 
桜井魁園
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化11年(1814年
死没 明治2年4月1日1869年5月12日
改名 桜井武雄
別名 通称:市之助→儇右衛門
:子洗
:魁園、秋園
墓所 大迫田墓地公園 金剛寺墓所山口県周南市
主君 毛利広鎮元蕃
周防徳山藩
父母 父:桜井雄俊、母:福根常至の娘
兄弟 魁園小川官介
入澤盛国の娘
正門
テンプレートを表示

経歴 編集

文化11年(1814年)、徳山藩士・桜井雄俊の長男として生まれる。

藩命により若くして京都へ遊学し、陽明学者春日潜庵や、上賀茂神社の神官で国学者加茂直兄(藤園)に師事して古書を究め、神典国史を読み漁った。

天保14年(1843年)には徳山藩の藩校鳴鳳館の助訓役となり、弘化2年(1845年)には訓導役、嘉永4年(1851年)には助教授に進む。嘉永4年8月に鳴鳳館にはじめて国学科が設けられ、魁園はその国書授方に任じられている。さらに、嘉永7年(1854年)には鳴鳳館を改称した興譲館の教授役取計、安政3年(1856年)には藩政にも参与して蔵本両人役を兼任する。

明治2年(1869年)に56歳で病没。小沢町金剛寺[1]に葬られる。魁園は和歌に巧みであり、その遺稿に「秋園集」がある。なお、興譲館における文学の教え子に、幼い頃の児玉源太郎がいた。

脚注 編集

参考文献 編集